甲子園高校野球 板東英二の熱投録

延長戦ゲーム、引き分け再試合と深い縁を持っている
高校野球球児と言われると、徳島商(徳島)の
スタミナモンスター・板東英二投手です。

最初に、高校野球で「引き分け再試合」という制度が
採用されたというのは、1958年の春季四国大会での板東英二投手の
熱投がきっけだったのです。

準決勝、高知商(高知)との試合で延長16回完投勝利を収めると、
その翌日、高松商(香川)との決勝戦も試合は延長戦へ。

スコアボードには0が連続し、25回をまたも完投。
意地の勝利を掴んでのです。

板東英二投手が2日間で40イニング以上を投げ抜いたというのは、
地方での試合というのに、誰もが知るトップニュースだったのです。

結果として、「健康管理」の名の元に、
「延長戦は18回で打ち切り、勝負がつかないのだったら、引き分け再試合」とする
ルールが誕生したのです。

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自分(板東英二)から生まれたルールの適用第1号

延長ルールを変えた高校球児として、一躍注目される男となった板東英二投手。

その大きな期待に応えて、文句なしこの年夏第40回選手権大会への切符を手にする。

甲子園球場では2回戦から送り込まれ、とりあえずは秋田商(秋田)相手に
17奪三振の1安打完封。

続く3回戦の八女(福岡)には15奪三振の4安打完投勝利。

それから、準々決勝初出場の魚津(富山)との対戦を迎え入れる。

試合は、”豪”の板東英二投手に対して、魚津のエース”柔”の
村椿輝雄は打たせて捕るピッチング。

0対0のまま延長戦に突入し、18回が終わっても0対0のまま、
史上初の「引き分け再試合」を迎えることになった。

皮肉なことに、板東英二投手で誕生した新規程適用第1号が
板東英二投手となったのです。

翌日の再試合、徳島商は板東英二投手が再びマウンドに上がったことに対し、
魚津のマウンドは村椿輝雄投手というのじゃなく、1年生投手だったのです。

結果、連投になった板東英二の方が、この試合でも完投勝利いたします。

翌日の準決勝へと駒を進めました。
そうして、準決勝でも14奪三振の1安打完投勝利で決勝に進出する。

しかしながら、いよいよここで板東英二投手もスタミナ切れ。
決勝は、0対7の完敗となりました、

終ってみると、板東英二投手は7試合を1人で投げ抜き、選手権大会通算83奪三振。

この三振数は今も大会歴代最多記録として、歴史に刻まれているのです。

甲子園高校野球の意外なこと

伝統と歴史を誇っている大会と甲子園球場だけに、過去にさかのぼれば、
ウソみたい事件や珍エピソードは数え上げれば尽きることがないほど。

試合中、試合以外も含め、さまざまな場面で起きた「甲子園トリビア」を
拾い上げたのです。

甲子園球場にガソリンをまいてグラウンド整備!?

甲子園球場名物と言えば、球場整備担当の阪神園芸のグラウンドキーパーたちが
試合前と5回裏後に行う、華やかなグラウンド整備も欠かすことはできません。

ところが、戦前はグラウンド環境がとてもとても悪く、整備の技術の機械も
揃っておらなかったがために、雨が降るとグラウンドには水溜りが出来ていた状態。

そういうわけで試したというのが、グラウンドにガソリンを撒いて火をつけ、
水分を蒸発していこうというとんでもない発想。

それを初めて行なったのは、1928年の夏第14回選手権大会の準決勝前です。

前日まで2日間雨が降り続けたためでしたけど、黒い煙が上がるばかりで効果はなくて、
それどころかグラウンド表面の熱気が地下の水分を吸い上げ、逆に凹凸になることも。

そうだとしても、このガソリンに火の方法は外見上のインパクトから観客ウケもよく、
20年ほど断続的に行われました。

甲子園球場ラグビー、スキー、歌舞伎何でもござれ

高校球児のことを思って建設された甲子園球場だったとしても、計画段階から
「ラグビーと他の競技でも使用してみたい」という構想を持っていました。

そのため、外野のスペースを広く使えるかのように、完成当初は外野フェンスが
ほぼ一直線といった変則的な形でした。

そしてそのプランどおり、甲子園球場ではラグビーやサッカーの試合が行われ、
現在でもアメリカンフットボールの大学日本一決定戦。

人気のある「甲子園ボウル」の舞台となっているのです。

けれども、過去には予想もしていなかった大会が開催されたことだってあります。
その1つが、全日本スキージャンプ大会。

1938年と1939年、左中間スタンドに高さ40メートルのジャンプ台を設置し、
信州や兵庫県城崎郡から列車で雪を運んで、どうにかこうにか開催にこぎつけたのです。

1939年8月には、二塁ベース後方に大舞台を設置し、野外歌舞伎を開催。

また、同年11月には、東京六大学リーグ戦の創設以来、初めて神宮球場以外で
早慶戦が行われたことだってあります。

こうして、甲子園球場では毎年さまざまなイベントが手掛けられ、
賑わいが途切れるわけがありません。

甲子園高校野球 柴田勲 vs 尾崎行雄

一発勝負のトーナメントで争う甲子園球場。

「あのチームと試合をしたい」と願っても、そもそも出場することこそが
難しいうえ、組み合わせには抽選という運も関係している。

それにも関わらず、3季連続で名勝負を演じたライバル対決がありました。

1960年代前半、法政二(神奈川)と浪商(現大体大浪商/大阪)の対戦。

特に、快速球と変化球が売りの法政二・柴田勲と、剛速球を武器に
「怪童」と呼ばれていてた浪商・尾崎行雄の投げ合いは人気の的でした。

初対決は1960年夏第2回大会2回戦。
法政二の2年生エース・柴田勲と、浪商の1年生エース・尾崎行雄による
投手戦を向かえた。

試合が動きを見せたのは終盤8回、法政二が一挙4点とって4対0で勝利。

法政二はそれ以降も勝利を重ね、夏の甲子園選手権大会初優勝を達成する。

2度目の対決は、翌1961年春第33回選抜大会。
「夏の王者」として甲子園球場に戻ってきた法政二と浪商との対戦は
準々決勝で実現してしまいます。

「事実上の決勝戦」とも評価されたこの対決、先制したのは前回負けてしまった
浪商、体調不良で調子が精彩を欠いた柴田勲投手を攻め立て、2回裏に1点を奪う。

けれども、法政二はなんといっても試合巧者。
5回に逆転し3対1でまたも法政二に軍配。さらに続く準決勝。

決勝も勝利し、夏春連覇という偉業を達成したわけです。

柴田勲 vs 尾崎行雄最後の決戦

戦後の最強の呼び声が高かったこの当時の法政二。

同年夏選手権大会は、史上初の春夏連覇、もうひとつに夏春夏の
3季連続優勝なるかに、世の中の注目は一気に集っていました。

そういった王者・法政二に、尾崎行雄投手と浪商が3度目の対決を
挑んだというのがこの大会の準決勝でありました。

主導権を握ったのは法政二。
1回と4回に1点ずつを挙げ、2対0のリードで最終回を守りに、
ですが、「今度こそ」という並外れた決意で試合に挑んでいた
浪商は粘りを見せ、二死ではあるけど満塁のビッグチャンス。

この機会に打席に立ったというのが、怪童・尾崎行雄投手。
法政二のマウンドは、間違いなく柴田勲投手。

甲子園球場中が息を飲んだこの直接対決、尾崎行雄選手の
打球は三遊間を破り、2対2の同点。

試合は延長戦へと突入したわけです。
勢いに乗った浪商は延長11回、集中打で2点を奪い勝ち越し。

3度目の対決にして、ようやく浪商が勝利を摘みました。
浪商は翌日の決勝戦も勝利を収めて、全国制覇達成。

法政二の前に苦汁をなめ続け、ずっとずっと達しなかった
深紅の大優勝旗をようやくその手元に収めたというわけです。

1928(昭和3)
春第5回選抜大会優勝 関西学院中(兵庫)
夏第14回選手権大会優勝 松本商(長野)

1938(昭和13)年
春第15回選抜大会優勝 中京商(愛知)
夏第24回選手権大会優勝 平安中(京都)

1939(昭和14)年
春第16回選抜大会優勝 東邦商(愛知)
夏第25回選手権大会優勝 海草中(和歌山)

1958(昭和33)年
春第30回選抜大会優勝 済々黌(せいせいこう/熊本)
夏第40回選手権大会優勝 柳井(山口)

1960(昭和35)年
春第32回選抜大会優勝 高松商(香川)
夏第42回選手権大会優秀 法政二(神奈川)

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