ダルビッシュ有でも届かなかった東北勢悲願の初優勝

2003(平成15)年春第75回センバツ大会、
夏第85回選手権大会、2004(平成16)年春
第70回センバツ大会、夏第86回選手権大会

日本中では本当は、
幾人のダルビッシュがいるのかなぁ?

体つきが理想的なスター候補が出現すると、
すぐさま「○○ダルビッシュ」みたいな
異名で呼ばれるは、
東北(宮城)時代のダルビッシュ有の
輝きがとんでもなく眩しかったから。

けれども、
あれほどの大投手をもってしたとしても、
「東北勢の悲願」、全国制覇といった頂点への道は険悪な。

ケガと不運が相次いだ高校時代!

高校入学の時点で190センチ突破し。

球速は140キロ突破。
変化球もバラエティー豊かだったダルビッシュ有。

しかしながら、
成長痛に不安を抱いていたようです。

試合で無理がが許されない。

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甲子園高校野球初登場を迎えることになった、
2003(平成15)年春第75回センバツ大会は、
女性ファンに包囲された局面で、腕を引き込まれて
ダメージを負う不運もあり、2回戦で敗退し、
雪辱に意欲を燃やした同年2003(平成15)年
夏第85回選手権大会は、
1回戦を腰痛で途中降板といった懸念する船出。

2回戦、3回戦は1人で投げきったけれど、
準決勝で右足のスネを痛め、
準決勝は登板を自粛する。

満身創痍で挑戦する決勝相手とは、
大会終了後の勇退を宣言していた、
名将・木内幸男監督が率いる、常総学院(茨城)です。

あらかたの予想は、
最速149キロを誇っているダルビッシュ有が有利と。

けれども、
それは手練手管の木内幸男監督マジック。

身体の調子が万全じゃないとなると
変化球で交わしてくるにちがいない、と
変化球狙いを指示していきます。

ダルビッシュ有投手は、痛みを耐え抜いて
敢闘するわけですが、2安打を浴び、2対4と敗北。

「自分のためで負けた。来年は誰にも
 かすられない球を投げたい!」と話す
ダルビッシュ有投手の目は赤かった。

ノーヒッターを演じても・・・!

「誰にもかすらせない球を投げたい!」と、
発言したダルビッシュ有投手は、
翌春第76回センバツ大会の1回戦、熊本工(熊本)戦で
ノーヒットノーランとしてほとんど有言実行を!

ついに東北勢初の優勝か、と期待されれが、
2回戦で右肩を損傷させて、途中降板する。

次の準々決勝、済美(愛媛)戦ではレフトの
守備位置につくが、試合は9回裏、
東北が後アウト1つまで、6対4とリードしつつ、
考えられないサヨナラ3ランを打たれて敗戦。

レフトを守っていましたダルビッシュ有は、
本人の真上を飛んでいくこのホームランを、
どこまでも見送るせざるを得ません。

迎えた高校ラストの夏、第86回選手権大会。

1回戦、2回戦を連続完封と圧倒的な差の
投球を見せるものの、
3回戦は延長の末に力尽き1対3で黒星。

ダルビッシュ有投手は、
「最後の打者」として打席に上がり、見逃し三振に。

歴史上最高の才能をもってしてみても、
東北の悲願には達しなかったんです。

木内幸男の監督人生2校で甲子園高校野球優勝マジック采配

1984(昭和59)年夏第66回選手権大会優勝
茨城県代表・取手二校、2001(平成13)年春
第73回センバツ大会優勝茨城県代表・常勝学院、
2003(平成15)年夏第85回選手権大会優勝

茨城訛りの陽気なキャラクターと、
相手チームばかりか味方ベンチもビックリする
「木内マジック」と伝えられた采配で人気を誇った。

甲子園高校野球史上に残っている名物監督です。

そのことが、茨城の取手二校と常総学院を
両方全国制覇に導く木内幸男監督。

「のびのび野球」自在性を一番に頂点へ!

指導者での出発点は、母校の土浦一(茨城)。

高校卒業後、このままコーチとなって
学校にとどまり、気づくと監督となっています。

ですが、教員資格を持ってなかった木内幸男氏は、
どんなことがあってもボランティア。

いくらなんでも生活ができないという理由から、
1957(昭和32)年、茨城県立取手二校の監督に就任します。

公立校ではマイナーな「職業監督」の幕開けだったのです。

だとしても、その当時の月給は4千円。

後に甲子園球場に出場することで、
6万2千円にアップしますが、生活の過酷さは変わりません。

奥様がパート、内職しながらお金の工面をする事で、
生活をやり繰りしてたとのことです。

木内監督の采配も、自分自身の生活と一緒で、
限定的な戦力をなんとかやり繰りし、最大限活用するやり方。

ベンチ入りさせた選手を一人残らず使い果たすのは言うまでもなく。

カウント半ばでも、代打を起用する、
選手交代の多いことも有名でした。

しかしながら、選手の独立心に重きを置き、
自分で考えてプレーするのを要求する点も、
その当時の高校野球ではまったく新しい点です。

この采配と指導方針が具体化したのが、
1984(昭和59)年夏第66回選手権大会。

強豪校をすごい勢いで打ち勝って、
決勝では桑田真澄・清原和博のKKコンビを擁し、
大会連覇を狙うPL学園(大阪)と対戦。

この絶対王者を延長戦の果てに、撃破する。

悲願の全国制覇を果たします。

私立の秩序のある野球とは一線を画す。

公立校の「のびのび野球」は大きな注目を集めました。

異なる2つの栄光で、甲子園高校野球制覇する!

この優勝を置き土産として、翌年1985(昭和60)年、
木内幸男氏は開校したての
私立常総学院野球部監督に就任します。

いち早く甲子園高校野球常連校へと育て上げ、
69歳になった、2001(平成13)年
春第73回センバツ大会で、春の王者の座を獲得します。

2003(平成15)年夏「監督最後の年」と表明して挑戦する、
第85回選手権大会は、決勝でダルビッシュ有投手擁する、
東北(宮城)を倒し、
自分自身2度目となる夏の全国制覇を成し遂げる。

まったく異なる2つの高校で、甲子園高校野球を制覇した、
監督は原貢氏(三池工と東海大相模)、
以降史上2人目の快挙となりました。

しばらくしてから、
嘆願される形で常総学院の監督へと舞い戻ります。

80歳まで勤め上げて、今度こそ辞職する。

60年を越す監督人生で、
史上7位の甲子園高校野球49勝を記録します。

野球界を追われた池永正明の栄光の時代「男気のマウンド」

1963(昭和38)年
春第35回センバツ大会、夏第45回選手権大会。

黒い霧事件は、
日本プロ野球史に汚点となって残っている八百長事件。

この騒動により、冤罪ではあったのに
野球生命を絶たれた人物が、
西鉄時代のエース・池永正明投手。

1970(昭和45)年の永久追放処分からついに
復権を果たしたのは、2005(平成17)年。

以降は新たに、プロ野球生活6年で、
103勝を挙げた偉業が見直されています。

ですが、下関商(山口)のエースとなって活躍した
高校時代に関しては、話される場面の少ない。

大会史に残された名投手、
という甲子園球場での戦いぶりにもスポットライトを当てます。

「父ちゃん、泣かんでもいいやないね」!

中学時代は、山口県の陸上三種競技
(走り高跳び、砲丸投げ、80cmハードル)で、
県記録を作ってきた足腰のバネが池永正明の魅力。

この強靭な足腰が生み出す速球とカーブで相手打線を翻弄し、
1963(昭和38)年春
第35回センバツ大会に2年生エースとして出場します。

初戦で優勝候補の明星(大阪)を3安打完封。

次の2回戦の海南(和歌山)戦は、
延長16回を投げ抜いて、最後には池永正明投手自ら
サヨナラ二塁打を打ち、劇的勝利。

それ以降も勝ち進み、決勝の場合は猛打を爆発させて
勝ち上がってきた、北海と対戦行なうことに。

北海道勢初の決勝進出とあって、人気があった、
この決勝戦で、池永正明投手は、完封勝利して、
10対0で下関商(山口)に初優勝をもたらします。

優勝後のヒーローインタビューだと、
応援席で涙ぐむ父を目にして、
「父ちゃん、泣かんでもいいやね。やったばい!」と、
言い放った様子も話題を呼んでいます。

痛みに耐えやり続けた「男気のマウンド」!

春夏連覇を狙った同年1963(昭和38)年夏
第45回選手権大会の初戦で4安打完封勝利して
期待通りのスタートを切るが、
次の2回戦で予想外の出来事がおこります。

5回の走塁中にクロスプレーで左肩亜脱臼。

この試合は右腕だけでの投球で完封勝ちを収めた
池永正明投手なのですが、次なる試合は出場が不可能なのです、

チームメイトの頑張りで1つの勝ち上がれた準々決勝。

中3日の池永正明投手が左腕を固定化して完投するわけですが、
7回に1失点し、県大会からの連続無失点は67イニングで止まります。

そうであっても次の準決勝をサヨナラが勝ちし、
春夏連覇をかけた決勝へ行きます。

決勝は、春に完封した明星(大阪)との再戦です。

左腕が動かせないデメリットを突かれ、
バント攻撃から1回表に2失点。

それ以降はゼロに抑えるのですが、
反撃は実らずに春夏連覇は伝説に。

しかしながら、痛みを耐え抜いて剛速球を投じる姿は
「男気のマウンド」となって、
国内全土から甲子園高校野球ファンから賞賛してくれました!

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