1974(昭和49)年夏第56回甲子園高校野球選手権千葉県代表・銚子商 金属バットの登場

経済成長率が終戦後
ついにマイナスに変わった1974年。

高度経済成長が終焉を告げ、
巨人の長嶋茂雄が引退するなどという、
日本社会の一つの転換期になった1974年、
高校野球にも激変が、
それよりも革命になり代わる出来事がありました。

金属バットの登場です。

すばやく導入した原貢監督・東海大相模(神奈川)

木製バットとは違って耐久性を持っていて、経済的な。
そういう理由から1974年夏
第56回甲子園高校野球選手権大会から
本格的に適用された金属バットでした。

折りしも、原木不足も木製バットの値段も高騰します。

野球部の予算の多くない学校では、
「消耗のめざましい木製バットしか認められないなら、
 部の存続までも危ういとされる」といった意見も聞こえてきたようです。

そんなわけでこういった、折れない金属バット。

高野連の調査では、
木製バットの耐久性は3000~4000球だけども、
金属バットならば1万以上の球を打つことを可能にする、
というような表現であった。

お金の面のばっかりが力説された上で導入が決定した
金属バットなのですが、この存在は疑う余地もなく
高校野球の様子をシフトチェンジしました。

打球スピードは速くなって、飛距離も急増。

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芯の面積が広めに、打ち損じも減少することによって、
軟投派の”打たせて取る”投手は
生きづらくなってしまったのです。

このような金属バットをすばやく導入し、
選手一人残らずに使用させた方が、
名将・原貢監督が率いる東海大相模(神奈川)です。

1974(昭和49)年夏史上初の”金属甲子園”にあたって、
1年生5番打者の原辰徳を中心として打力で勝ちあがり、
ベスト8進出を果たしています。

意図して木製バットを使う男

けれども、材質や色なんかに規制をかけられ
解放になったことから、夏の大会で実際取り入れられるのは
USA生産品だけでした。

それが理由で、供給量が時間に間に合わないこともあって、
チームの中でも木製と金属製の使用が混在。

導入1年目、甲子園球場による金属バット使用率は
全部の6割でした。

また、意図して木製を使用を継続する選手もいました。
今回の大会優勝した、銚子商(千葉)の
4番・篠塚利夫(のちに和典)のその1人です。

「グリップの感触がしっくりこない」
「木のしなりを利用しバットにボールを乗せる
 感覚が金属バットには足りない」と、
安打職人と言われた篠塚なればこその言葉を残しているのです。

アグレッシブに金属バットの影響が生じたのは翌年以後に。

それ以前は最高でも10本前後であった
大会通算ホームラン数は、
1975(昭和50)年夏の選手権大会で終戦後1位の15本。

この本数は、10年も経たない過程で20本、30本と
みるみるうちに積み上がって、打高投低時代の始まりになります。

1974(昭和49)年夏第56回甲子園高校野球選手権大会 原辰徳フィーバー

炭坑町に灯をともした、1965(昭和40)年
夏第47回甲子園高校野球選手権大会三池工(福岡)の
初出場初優勝の快挙!

その立役者と言える29歳の原貢監督は、
翌シーズン、東海大相模(神奈川)の監督へと
華々しく転身しています。

僅かばかり4年後の1970(昭和45)年夏
第52回甲子園高校野球選手権大会にあたって、
東海大相模にも初優勝の栄光を
導き出す状況に成功します。

全く異なる2つの学校による全国制覇は史上初!

原貢の名は「名将」といった称号によって
高校野球の歴史に刻まれました。

そうして、この夏からさらに4年後。
原貢とその息子、原辰徳を介しての
「父子鷹」により、甲子園球場に
今までなかった物語が紡がれるようになります。

放送番組ルールさえも変化させたスター原辰徳

1974(昭和49)年夏、
高校野球界に勇ましくいい感じで
誕生した東海大相模の原辰徳。

アイドル顔負けのルックス、
1年生ながらも名門校の5番サード。

それから「父子鷹」。
試合前からスターとなる要素がいっぱいで、
その人気に拍車をかけたことが、甲子園球場で
演じた泥だらけの名勝負です。

舞台は、1974(昭和49)年
夏第56回甲子園高校野球選手権大会の準々決勝。

東海大学付属相模高等学校(神奈川)vs 鹿児島実業高等学校(鹿児島)。

これまで2試合を1対0の完封で勝ってたどり着いた、
やはり”アイドル人気”の鹿児島実業の
エース・定岡正二との競り合いは、試合前から話題の的です。

雨でぬかるんだグラウンド上追いつ追われつ、
ファインプレーの攻防という好ゲームは、延長15回の
激闘の末、定岡と鹿児島実業に軍配が上がったワケです。

この一戦のNHK視聴率は夕方という時間帯で驚くなかれ34%。

その当時は、試合時間が長くなったら、進行中も
打ち切られるは当たり前だったんですが、この試合を進行中に
中断したはいいがNHKに激しい抗議電話が押し寄せたのです。

翌シーズンから延長でも実況が行われることになります。
スターの存在は、こういったふうに放送番組ルールさえも
新しくしてしまうということを意味します。

原フィーバーで『輝け甲子園の星』創刊!

原辰徳の翌1975(昭和50)年
春第47回甲子園高校野球センバツ大会にも出場しています。

決勝まで勝ち歩を進めますが、延長13回の激闘の末、
高知市立高知商業高等学校(高知)の前に残念な事に準優勝に。

しかし、この大切な一戦でもホームラン1本と
三塁打1本を含む3安打と大活躍。

期待度は男女に影響されることなく、日を追うごとに高まりを見せ、
神奈川地方大会でも球場をすし詰め状態にするといった
「原フィーバー」を巻き起こしたのです。

だからこそ、原辰徳を特集した『輝け甲子園の星』や
『高校野球神奈川グラフ』と次から次へ創刊します。

野球出版文化にも決定的な影響を及ぼしています。
3年間で甲子園球場には、夏3回、春1回の計4回出場します。

頂点には惜しくもと届くことがありませんでしたが、人気の面では
正真正銘の当代一のスラッガーとなったのです。

1965(昭和40)年夏第47回選手権大会福岡代表・三池工初の全国制覇は名将原貢

明治期に炭坑町として高度化し、国内最大の
三井三池炭坑を所有していた福岡県大牟田市、
炭坑の町も、1960年代になれば石炭産業の
斜陽化で暗い影が射し込んでいました。

信じられないほど多数解雇をきっかけにした三池争議、458人もの
死者が出た三井三池三川炭鉱炭じん爆発事故の発生があって、
人口も減少し続けていたそうです。

その中で、一条の光になったというのが
1965(昭和40)年
夏第47回甲子園高校野球選手権大会で
初出場を達成した福岡県立三池工業高等学校。

炭坑で働く「ヤマの子」たちも数多く籍を置いていた
この野球部を率いたというのが、のちに「アマ球界のドン」と
評価される若き日の原貢です。

スパルタ指導で鍛え抜かれた「ヤマの子」

原貢が三池工の監督の就任したのは、
1959(昭和34)年、23歳。就任後のしばらくはなかなか
結果が得られませんでした。

その後の名将の姿をこの頃に予測した人は存在しなかったでしょう。

その一方で、スカウト活動に努めて時間をかけて有力選手が
集められると、絵に描いているみたいなスパルタ指導で、
野球部を鍛え上げ、1965(昭和40)年
夏ずっと夢見ていた甲子園球場出場を果たします。

ようやく立つことになった甲子園球場。
初戦の相手は優勝候補の
香川県立高松商業高等学校(香川)なのですが、
延長13回の激闘の結果サヨナラ勝ち。

次なる試合は打線が炸裂して大勝するわけですが、
準々決勝では、報徳学園高等学校(兵庫)相手にしてまたも
延長サヨナラによる辛勝。

続く準決勝も1点差による勝利。
薄氷を踏む勝ち上がり方で、ついに決勝まで進みます。

ヤマの子 vs ウミの子

決勝の相手は、黒潮打線と言われていた打力のチーム、
千葉の千葉県立銚子商業高等学校です。

「ヤマの子とウミの子対決」と注目を集めた
この決勝戦、両軍無得点の状態で試合は終盤7回裏。

三池工が2死一・二塁とチャンスを獲得すると、
原監督の命令は「カーブを狙え」。

そのカーブを強振した打球は決勝点を奪うタイムリーヒットに。

いよいよ優勝旗までも手にしたワケです。

初出場初優勝は、10年ぶり10校目です。
工業校の優勝は史上初の快挙です。

そして何にも増して「炭坑にもう一度灯をともした」
ということで劇的に報じられ、凱旋パレードには
人口21万人の町に30万人が押し寄せる騒ぎに。

このとき、原貢監督29歳。
そうしてこの連続した狂想曲を間近かで見てた方が、
当時7歳であった、原辰徳少年です。

辰徳少年はこの夏、野球の魅力と魔法に目覚めます。

三池工での実績を買われて三顧の礼で歓迎された
東海大相模(神奈川)の野球部監督へと転身した
父と一緒に、甲子園球場で「原フィーバー」を
巻き起こすのは、9年後のことであります。

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