チーム・池田高校(徳島県)

「四国のへそ」と言われるような山間にある普通高校。

1922年に池田中として創立、戦後池田高校に改称する。

1974年春選抜大会、野球部員が11人で準優勝を成し遂げ、
「さわやかイレブン」と言われる。

1979年夏選手権大会は、決勝まで行きますが、
箕島(和歌山)の春夏連覇を達成する結果となる。

1982年熱選手権大会、畠山準(元横浜)、水野雄仁(元巨人)の
強力打線は「やまびこ打線」と呼ばれ、荒木大輔(元横浜)のいた
早稲田実(東東京)から14点を奪い、決勝も広島商と戦い12対2と圧勝する。

1983年選手権大会も打棒は健在で、春夏連覇を達成。

その夏に史上初の夏春夏の3連覇を狙うが、1年生のPL学園(大阪)KKコンビとの
準決勝で0対7と衝撃の完敗を喫する。

筋力トレーニングを取り入れ、金属バットを活かす攻撃スタイルが
全国高校野球が人気に。

蔦文也監督は、「攻めダルマ」の異名を頂く。

選手権大会は8回出場で、優勝2回、22勝6敗。
夏選手権大会は、9回出場、優勝1回、20勝8敗。
それぞれ1回ずつ準優勝がある。
42勝は24位タイ。

蔦文也監督が一つの時代を築いたが、1999年に監督を退任してからは、
2014年の選手権大会に出ただけ。

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さわやかイレブン

1974年の選手権大会は部員数わずあk11人の池田高校(徳島)が
決勝まで進出する。

池田高校は大会前からNHK放送が「谷間の球児」という番組を
放送して注目されていたものの、エース・山本智久を中心に、
ことごとく接戦を勝ち上がったのは見事でした。

報徳学園(兵庫)に敗れるが、蔦文也監督の独特な風貌もあって
一大ブームを呼んでいる。

「うちが地元なのに、球場全体が池田高校の見方のよう」とは、
優勝した報徳学園を率いた福島敷彦監督。

ただこのときの選手権大会は、木製バットの最後の大会で、
池田高校自体も後に、やまびこ打線で知られるような
豪打のチームではなかった。

それどころか、時にホームスチールやスクイズを用いる、
あるいはビックオフのトリックプレーを取り入れるなど、
緻密な野球が持ち味だった。

なにしろ3点あれば何とかなった木製バットの時代です。

この大会の池田高校の勝ち上がりも、最多得点が4、得点差も2点以下。

敗れた報徳学園戦の1対3。

ただ「選手11人。けがでもされたら大変とプロテクターを
着けてノックを受けたと報道されましたが、
そんな上品なものじゃない。
練習が厳しくてどんどん辞めるから、どうしても人数が少なく
なってしまうんです。
実は、甲子園高校野球選手権大会が決まった後も一人
辞めているんですよ。でも2学年で11人なら、
多いほうじゃなかったかな」
ては、後年山本智久投手に聞く。

もしかしたら、イレブンではなく、さわやかトウェレブンだった
かもしれません。

そして報徳学園、福島敷彦監督によると、
「決勝の前の日、池田高校の宿舎の側で蔦文也監督さんと
飲んだんです。蔦さんと言えばお酒好きで知られるほど、
僕の方が若いから酒量では勝ったなぁ。
すぐにフライデーされる今なら、考えられん話だけどね」。

監督・蔦文也(つた・ふみや)

1923年8月28日、徳島県生まれ。

徳島県立池田高校野球部監督を長く務め、豪快に打ちまくる
野球で「攻めダルマ」の異名をとった。

蔦氏自身は徳島商で1939年選手権大会は一塁手、
1940年の春夏は投手として甲子園高校野球に出場。

1940年は勝利なしに終る。
同志社大卒業後は、全徳島に加入し、都市対抗に3度出場。

1950年に東急フライヤーズに入団したが1年で退団し、帰郷する。

徳島県の教員試験を受け、池田高校に社会科教諭として赴任し、
1952年から監督に。

着任当時ボール3個、バット2本といった苦しい状況が長く、
徳島商の壁も厚く。

甲子園高校野球出場は、20年目の1971年夏。

そして1974年春選抜大会、部員数11人で準優勝。
報徳学園(兵庫)に敗れたが、「さわやかイレブン」と称された。

1979年夏は、牛島和彦(元ロッテ)、香川伸行(元ダイエー)の
浪商(現大体大浪商/大阪)に準決勝で勝ち、箕島(和歌山)に
惜敗し準優勝。

「甲子園で勝つには、金属バットを活かして打ち勝つこと」と
筋力トレーニングを取り入れ、バッティングを強化する。

山の中の池田町に金属バットの球を打つ音がこだましたこと。
試合でヒットを打ち出すと止まらないことから、
「やまびこ打線」と言われた。

1982年夏選手権大会は、畠山準(元横浜)がエースで4番。

早稲田実(東東京)の荒木大輔(元横浜)を14対2と粉砕する。
強力打線で他校を圧倒する。

決勝の広島商にも12対2と、高校野球の従来のスタンスを変える
勝ち方で優勝した。

翌年の夏選手権大会は、エース・水野雄仁(元巨人)が
5試合失点1で夏春連覇。

夏も優勝候補の筆頭だったが、準決勝で1年生の桑田真澄・清原和博の
PL学園KKコンビに0対7と衝撃的な敗北を喫した。

1986年夏選手権大会は、左腕の梶田茂生を中心に手堅い野球も加えて優勝。

その夏は明野(三重)にまさかの1回戦負けを喫したが、
1987年選手権大会は4強。

夏にも1勝と甲子園高校野球を沸かせ続けた。

池田高校内の碑には、
「山間の町の子供たちに一度でいいから大海を見せたかったんじゃ」
という、蔦文也監督の言葉が刻まれている。

「コツコツ当てていく野球は嫌いじゃ。のびのび打ったらええんじゃ」
と、蔦語録も味があり、記者の間でも人気が有った。

お酒が好きでも知られる。

1992年勇退。春夏14回出場で、優勝3回、準優勝2回。37勝は8位タイ。

2001年4月、77歳で没。池田町名誉県民第1号でもある。

池田高校の井上力現監督は教え子で、1986年夏選手権大会の優勝メンバー。

選手・水野雄仁(みずの・かつひと)

1982年夏に池田高校(徳島)の外野兼投手として優勝に貢献し、
1983年の春夏にはエース兼4番として甲子園高校野球に出場。

その風貌や親しみやすいキャラクターから
「阿波の金太郎」の相性で親しまれた。

1965年生まれ。阿波一中から池田高校に進み、名将・蔦文也監督の
指導を仰ぐことに。

チームは1学年上の本格派右腕・畠山準(元横浜)を中心にめきめきと
力を付け、1982年夏に2年生の主力打者として甲子園高校野球出場を果たす。

攻めダルマと呼ばれる蔦文也監督の育てた打線は、打って打って打ちまくり、
圧倒する猛打を見せ付けて全国の頂点に立った。

以来、その強力打線は「やまびこ打線」と呼ばれる。

準々決勝の早稲田実(東東京)戦、水野雄仁投手は
その当時アイドル的人気を誇った荒木大輔(元横浜)から
満塁打を放ち、非凡さを披露した。

翌1983年春にはエースになって、横浜商を破って、史上4校目の
春夏連覇。夏春夏という前人未到の3連覇に挑んだ夏は、
順調に勝ち進み、頂点が見えかかった準決勝。

相手は当時1年生だった桑田真澄(元巨人)、清原和博(元オリックス)
KKコンビがいたPL学園(大阪)。

前評判の高くなかったこのPL学園に、水野雄仁投手はまさかの7失点。

桑田真澄投手に本塁打を打たれるなど、3連覇はならなかった。

広島商との3回戦で水野雄仁投手は四球を受け、
その影響も取りざたされたが、池田高校の主将・江上光治選手は、
「抽選して帰ってくると、水野から毎回小言を言われたけど、
PL学園を引いた時は、よくやったと言われたんですが」と振り返る。

つまり水野雄仁だけでなく、チーム全体がノーマークの
PL学園に油断し、それが敗戦の大きな要因だったと言う。

卒業後は、セ・リーグ巨人に入団して中継ぎ、抑えとして活躍。

規則・金属バット

1974年、高校野球に革命が起きた。金属バットの導入。

折れやすい木製バットは経済的負担が大きく、また森林資源の
ダメージもある。

それらを解決するのが、
すでにアメリカの大学で使用されていた金属バット。

アルミニウムに銅と亜鉛を加えた合金の金属パイプを成形、
焼入れして作られる中空のバットで、むろん耐久性は
木製よりも高い。

性能テストの結果、使用が認められたのが米国イーストン社製の
イーストンとアデロンダック。

1本あたりの単価は当初木製バットの2、3倍だったが、
折れるリスクと相殺すれば、むしろ経済的。

日本高野連はこの年の3月4日付で使用許可を正式決定したが、
選手権大会大会では、出場30校のうち金属未使用のチームを多く、
公平性のために解禁を見合わせた。

しかし、一般的に金属は、木製バット比べてジャストミートできる
芯が広く、強い打球を打てる、事実、当時から
「打球が速い」「よく飛ぶ」と、野球の本質を微妙に変えかねない
懸念はあった。

1974年の夏選手権大会の本塁打は11本で、前年の10本と大差はないが、
金属バット時代が本格的に幕を明けたのが、翌1975年夏選手権大会。

前年は1本、それもランニング本塁打だけだったが、
なんと大会最多の11本も飛び出したのだ。

1980年代には、池田高校(徳島)の山びこ打線が、
力によって球を飛ばせる金属バットの特性をうまく利用する。

鍛え上げた筋肉で、長打を量産した。
さらに選手の体格向上や、ピッチングマシンによる打撃練習の
質の向上で、高校野球は徐々に打高投低になって行く。

また金属バットも時代に応じて、経済的負担の低減は二の次、
徐々にメーカー間の性能競争の様相を呈した。

これに対応し、1991年にはカン高い打撃音が聴覚に影響を与えるとして
消音バットが採用され、2001年には破損のリスク、スイングスピードを
抑えるために、900グラム以下の軽量バットは禁止されている。

それでも打高投低には止めはかからず、2017年夏選手権大会最多を大きく
更新する68本のホームランが生まれ、広陵(広島)の中村奨成(広島)は
従来記録を1本上回る個人1大会6本塁打を記録した。

むろん要因は金属バットだけではないとしても、
あまりに打撃が優位では、それこそ野球の本質が損なわれるのでは、
という声もある。

そろそろ、木製バットへの回帰もいいかもしれない。

なお、高野連では、金属バット以外でも木製、木片接合、竹の接合バットも
使用が認められている。

導入元年の1974年夏選手権大会、銚子商(千葉)の篠塚利夫(元巨人)
をはじめ、最初の何年かは木製のバットを使う高校球児も見られた

練習・ウエートトレーニング

筋力トレーニングの一種で、バーベル、ダンベル、マシン、自重を使い、
筋肉負荷を掛けて体を鍛える。

高校野球界で最初にウエートトレーニングを本格的に取り入れたのは
どこかと言うと、諸説ある。

どのチームも古くから腹筋、背筋、うさぎ跳び、腕立て伏せは定番メニュー。
今で言う体幹トレーニング。

だが自重という意味も含め、さらに体系的なウエートトレーニングに
取り組んだのは、池田高校(徳島)がその代表例だろう。

1981年、6年ぶりに池田高校に再任した高橋 彦が、蔦文也監督に
トレーニングの必要性を直訴。

ただしよく言われているように、当初からマシンを使い、
ガンガン鍛えたのではなく、自身のレスリング経験と、理論を基に
体の捻りやしなりのために必要な部位を重点的に強化する。

古タイヤを工夫して押す、引っ張る。
あるいは、腹筋からダッシュ、腕立て伏せからダッシュ、ジャンプからの
ダッシュと地道なトレーニングだけに、打撃練習の好きな蔦監督は、
最初は半信半疑だった。

という、だが半年が経過した1982年春、打球の伸びに誰もが
目を見張ると同時に、夏の大会前にもけが人が出なかったことで、
蔦監督も、ウエートレーニングの効果を実感する。

その夏、池田高校の山びこ打線は、6試合で44点をたたき出し、
初優勝を飾る。

同じ四国では、当時宇和島東(愛媛)を率いていた上田正典監督も
ウエートトレーニングの導入は早い。

もともと母校の宇和島東はボート部が強く、在学時代から、
上田正典氏は、
「ボート部員がソフトボールをやると、フォームは不恰好でも
とんでもなく飛ばす」ことに驚いた。

そこで監督となると、ボート選手強化用のローイング・マシンを
真似してお手製でこしらえたり、砂袋を手で引き揚げる器具も
工夫した。

「松山商のこまい野球に対抗するには、パワーを付けるしかない」。

ウエートトレーニングが実を結ぶのは、1987年夏選手権大会
160センチそこそこの選手が愛媛県大会で4ホーマーするなどし、
「僕自身も驚いた」。

その前には、天理(奈良)がスポーツジム、ワールドウイングの
小山裕史の指導を受け、1986年夏甲子園選手権大会制覇につなげている。

ウエイトトレーニングの効果が実証されれば、どのチームも取り組みは早い。

現在では、強豪校は多くは本格的なウエートトレーニングマシンを
導入しているし、定期的にトレーナーが指導に訪れることも珍しくない。

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