岩手県勢花巻東・大谷翔平の夏の甲子園選手権大会は、1試合だけ

●東北岩手県勢甲子園球場夏選手権大会
岩手県勢夏選手権大会戦績上位校
・ベスト4
盛岡中 第3回、第5回選手権大会
花巻東 第91回、第95回選手権大会
・夏選手権大会出場回数上位校
盛岡大府10回、福岡10回、盛岡一9回、花巻東8回
・岩手県勢初出場校
一関中 第2回選手権大会
・岩手県勢夏選手権大会初勝利
一関中 第2回選手権大会

第50回、第51回選手権大会に出場。
三沢のエース・太田幸司投手は、8試合3登板奪った三振は56個。
第51回選手権大会は勝ち上がって、決勝は延長18回引き分け、
次の日の再試合もひとりで投げ抜きます。

第51回選手権大会。青森勢初の準優勝に輝き、
三沢ナインが青森駅に到着すると、駅前広場を埋めた人々に
迎えられ「バンザイ」三唱を浴びる。

第87回選手権大会。
智弁和歌山戦で値千金の逆転本塁打を打ち放ったのは、
青森山田の3番・加守田隆介選手。

第94回選手権大会。
投手陣をリードで後押し、2塁打を放つなど攻守で大暴れしたのは、
光星学院・田村龍弘捕手。

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ヒーロー 三沢高校ナイン

1949年夏の第51回選手権大会準優勝校・三沢高校の敷地には、
「栄光は永遠に」といった記念碑が建てられてます。

背面には、
「敗れて悔いなし、三沢高校
 誉めても誉めても足りない三沢高校」から始まる、
サトウハチロー先生の詩が刻み込まれている。

本当は裏面に、大活躍した選手全員の名前を刻む案もあってたが、
けれども当時の三沢校校長は、そこをかなりためらわれます。

生徒はまだ10代なのです。今後の人生は、準優勝した野球同様
うまく行くとは限らない、刻まれた名前が今後、ともすると重荷にならないか。

入れ替わりに、野球好きの詩人の詩を刻むことに決定しました。

捕手であった小比類巻英秋の息子・英史は、2003年夏、
光星学院の三塁手として、甲子園高校野球に出場してます。

1回戦で、帝京戦で救援し、5回2/3を6安打3失点で甲子園デビュー。

故障明けで本調子ではおりませんでしたが、球速150キロを記録。

大谷翔平の夏の甲子園選手権大会は、1試合のみ。

3打数1安打2打点をマークして
「どんな勝ち方でもいいから勝ちたかった」と語って
甲子園球場を立ち去った。

岩手が生んだ2人のビッグヒーロー

聖地である甲子園球場のマウンドに立つことになった、
1年生左腕のピッチングは、野性味溢れ出る躍動感に包まれていた。

さながら鹿の頭部をかたどったかぶり物を着用した踊り手が、
角を振りかざして踊り舞う岩手県の郷土芸能「鹿踊」みたいに。

すみれ色とグレーを基調にしたユニホームを着て、
「17」の数字を背負った、彼が全国デビューを成し遂げたのは、
2007年夏甲子園選手権大会。

菊池雄星(西武ライオンズ)。
後に花巻東を選抜準優勝、夏の甲子園選手権大会ベスト4に導き、
「20年に一人の逸材」と絶賛されていた怪物左腕です。

2009年夏、菊池雄星は甲子園選手権大会初戦の時点から
抱えていた左肩やひじの不快な感じに加え「呼吸をしても痛かった」と
思い起こすほどの背筋痛に悩まされていたのです。

敗れてしまった中京大中京(愛知)との準優勝は、11球で降板しています。

「痛くて、痛くて・・・」。もういっぱいいっぱいだった。
試合後の菊池雄星投手は、両目いっぱいの涙を止められません。

「自分を信じてマウンドに立たせてくれた監督やチームメイトの
 信頼に応えることができなかった。チームメイトのためならば、
 もはや一生野球が出来なくなっても構わないから投げ抜きたかった」。

エースナンバー「17」を背負い続けた菊池雄星投手の言葉に、
岩手県民勢だけじゃなく、甲子園高校野球ファンの胸は熱くなってしまう。

こういった菊池雄星が始まりであった、花巻東の「17」の系譜。

下級生の頃に付けるその2ケタ番号は実力の証とされ、
次世代のエース候補に贈られる。

今なお花巻東においては特別な数字となっている。

菊池雄星が高校を卒業した2010年春、希代の左腕の熱量が鮮やかに残る
その時に、花巻東に入学した大谷翔平(エンゼルス)も、
1年時は背番号「17」を付ける。

大谷翔平選手との出会いを花巻東の佐々木洋監督は過去にこう話している。

「手足の長さと投球フォームをひと目見て、鳥肌が立ちました。
 筋力に頼ることなく、備え持つ周囲の可動域を目いっぱい活用して、
 右腕をムチのようにしならせる動きに衝撃を受けた」。

岩手県内で菊池雄星くらいの素材を出会うことは、最初で最後。

本音を言えば、佐々木洋監督もそういった風に考え、「二度とないだろう」と、
感じていた矢先の未知の逸材との出会いとなります。

それだけの衝撃は、底知れないものがあると感じます。

2011年3月に起きた最大クラスの東日本大震災。
そしてこの年の夏に訪れた左股関節の骨端線損傷といった過酷な逆境を
克服し、大谷翔平投手は2012年夏甲子園選手権大会に絶大なる光を放つ。

高校ラストの岩手大会準優勝で、アマチュア史上最速160キロを記録する。

けれども、その数字そのものに「大きな驚きはありませんでした」と、佐々木洋監督は語る。

大谷翔平を身近で見守って、大谷翔平の能力をどんな人よりも知る指揮官の
言葉が妙に納得できるのです。

160キロも不可思議な事ではない。
後々投打二刀流に挑み続け、日本プロ野球界、メジャーで頭角を現す姿を
見ると、これまで以上にそう考えてしまうわけです。

菊池雄星や大谷翔平という逸材とまで言われながらも、過去の
岩手にも甲子園高校野球史に名を残した選手は見られます。

一関中(一関一)、盛岡中(盛岡一)といった旧制中学が
全盛期だった戦前には、福岡中(福岡)の戸来誠と村田栄三の
バッテリーが注目されている。

1927(昭和2)年の夏、高松商戦の9回1死三塁から、
捕手の村田栄三が中腰に構え、エースの戸来誠投手から
ウエストボールを投げ続けて塁を埋めた。

球場が沸いたといったその奇策とは、日本初の満塁策と考えられる。

県立勢が全盛期だった1980年代には、選抜4強、春夏連続で
甲子園高校野球出場の大船渡に左腕・今野正志という
小さな大投手がいたのです。

時代は変化して、現在の岩手は私学が優勢で、
夏に絞り込んで、1994年の盛岡四を最後に、県立校は
甲子園高校野球に出場しておりません。

花巻東、盛岡大府、一関学院とされる私学勢が
県王者の座を分け合っているのです。

その流れの中に見合った、2009年の花巻東の快進撃。

そして、菊池雄星投手と大谷翔平投手というような
二つの巨星が、奇跡さながら連なった6年間が、
岩手の高校野球からすれば潮目でした。

岩手の地で育まれた逸材の一人は
今、海を渡ってメジャーの舞台に立ち上がる。

メジャーの「てっぺん」に取り組んでみたいと言う強い想いは、
花巻東時代から変わることのない大谷翔平投手の思考。

これから先も「自分が一番成長できる過程を踏みたい」とも話しています。
毎日の取り組みを大切に考える。

並外れた才能があることに疑いの余地はありませんけれど、
その技術を高め続けようという向上心と取り組みがあってこそ、
大谷翔平投手は、輝き続けていけるはずです。

その姿勢と考えの原点とは、両親と一緒に日々を過ごした岩手の地にあり、
花巻東時代にあるのでしょう。

大谷翔平の背中には今、「17」が思い浮かぶ。

「特に深い意味はなかったのですよ」。
大谷翔平投手はお茶目っぽく笑うが、背負って立つ番号を見るたび、
丸刈り頭の大谷翔平投手の記憶がよみがえってくる。

期待と希望の表れだという番号は、やはり
大谷翔平選手がよく似合うことを考えれば、異論なんてないはず。

第89回、第91回甲子園選手権大会に出場し、
3年夏は選抜の準優勝投手として注目が集まり、
前評判通りに勝ち上がるも、準優勝は背筋痛で力尽きた
花巻東の菊池雄星であった。

第66回春選抜大会。
岩手県勢初の春4強入りを果たし、センセーションを巻き起こした
大船渡の大黒柱・今野大志投手。
夏甲子園選手権大会は初戦で好投するも1点差に泣く。

第13回甲子園選手権大会。
満塁策を日本で最初に行ったとされている、
福岡中の捕手・村田栄三と投手・戸来誠のバッテリーも
忘れられない!

第82回岩手大会でパンチ力を発揮した
専大北上・畠山和洋選手は、高校通算62本のスラッガーも
甲子園高校野球では畠山対策で無安打に。

夢へあと1勝 三陸地方の高校

太平洋を望む三陸地区からは、ここまで6校が
甲子園高校野球に出場をしているのです。

1959年宮古が始まり。
以後、1970年代は宮古水産と久慈。
1980年代は、大船渡と高田。
1990年代は、久慈商(現・久慈東)が甲子園高校野球の
マウンドを踏みますが、いずれも初戦で敗退。

三陸勢は今だ、甲子園高校野球の1勝を獲得していない。

171センチの小さな大投手・今野正志を擁した大船渡の
選抜4強は1984年。

春夏連続で甲子園高校野球行きを決めたチームは、
三陸勢初の夏甲子園高校野球1勝を望まれますが、
1回戦で長浜(滋賀)に1点差で惜敗の4年後の
1988年に8回降雨コールドで初戦敗退となる
高田の悔しさは、作詞家・阿久悠氏の
『甲子園の詩』において広く知れ渡り、7対0からの
逆転負けをくらった1993年の久慈商もまた、
甲子園高校野球の観客、全国高校野球ファンの記憶に残る。

東日本大震災以後、一度も出場がないだけに
「甲子園高校野球」へのあと1勝とともに、
夏甲子園選手権大会1勝は、三陸地方の高校勢の
たっての悲願だと言ってもいいでしょう。

岩手県勢ベスト8以上進出校とメモリアルナイン

・一関中 第2回選手権大会
・盛岡中 第3回選手権大会ベスト4
・盛岡中 第5回選手権大会ベスト4
・盛岡中 第7回選手権大会
・福岡中 第13回選手権大会 村田栄三
・福岡 第43回選手権大会
・盛岡一 第50回選手権大会 小笠原敬二
・福岡 第62回選手権大会 欠端光則
・専大北上 第80回、第82回選手権大会 畠山和洋
・花巻東 第91回選手権大会 菊池雄星、柏葉康貴
・花巻東 第93回選手権大会 大谷翔平
・花巻東 第95回選手権大会 千葉翔太
・盛岡大府 第96回選手権大会 松村裕樹
・盛岡大府 第99回選手権大会

岩手県

北海道に次ぐ広い面積を持ちます。

県の中央部を南北に流れる北上川を挟み、東部に北上高地、
西部に奥羽山脈が走る。

海岸線は宮古付近を境に、北部は断崖の続く隆起海岸、
南部は半島や湾の多いリアス式海岸という複雑な地形。

平安時代には奥州藤原氏が平泉を中心に、
京都も凌ぐ絢爛豪華な文化の華を咲かせます。

廃藩置県で、盛岡、江刺、胆沢、一関の4県に、
数回の分離、統合の後、1876(明治9)年に現在の
岩手県が成立する。

産業は農林水産業が中心ですが、北上、一関、盛岡周辺は
工場進出も活発になっています。

岩手県章は、岩手の「岩」の文字をデザインする。

岩手県名の由来は、鬼が岩に押した手形の伝説、
岩木山の溶岩流を岩出といったなど諸説ある。

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