甲子園球場での校歌斉唱

今となっては、勝ったチームが高らかに校歌を歌い上げるシーンは
甲子園球場の風物詩。

しかしながら、そういった見慣れた光景も、春と夏と比較したら
進化の過程に違いが出て来るのは、それほど浸透していません。

春選抜大会が起源の校歌斉唱が、
夏の選手権大会で採用されたのは、遅延すること28年過ぎの
1957年夏第39回選手権大会から。

実のところ長年、春だけに限られた趣向として普及していたんです。

けれども、夏の選手権大会で採用する場合になると、
後発であればこその企画的な一捻りを感じていました。

そのことは、伴奏で流す曲が「歌入り」になったことです。

そこまでは、春選抜大会の校歌斉唱ではメロディーのみが流れていたわけです。

この「歌入り」校歌斉唱が好評を博し、
春選抜大会でも1975年からずっと、歌入り音源を使用するようになってました。

夏の選手権大会に流す音源は、大会前に主催者側が出場校から
楽譜を取り寄せ、プロの男性コーラスでの合唱を録音したのを使います。

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一方、夏選手権大会では各学校に音源を用意してもらう、という違いが
今でも続いております。

また、以前の校歌斉唱は勝った高校だけに認められた権利で、
半分の学校は校歌を歌えないで甲子園球場を立ち去っている。

けれども、1999年以降は春夏問うことなく、初戦の2回表裏に両校校の
校歌を場内放送で流すことが慣例化。

全出場校の校歌を耳にすることが適うことになってました。

校歌斉唱を巡っては、ちょっとばかりひと味もふた味も違った曲調や歌詞で、
観客やインターネットを通じてざわつくケースがあります。

至学館(愛知)のJポップ調校歌「夢追人」、導入とサビに英語が入る
健大高崎(群馬)の校歌「Be Together」が代表例。

そんなインパクト校歌の走りと思われているのが、
1976年夏第58回選手権大会での桜美林(西東京)はこの選手権大会で、
初出場初優勝の快挙を達成するのです。

東京都勢の優勝は、第2回選手権大会での慶應普通部以来60年ぶり
であったことや、PL学園(大阪)との決勝戦が延長サヨナラの劇的展開
であったこと、さまざまな面から話題が集まった。

より以上に印象を強くした、
「イエス イエス イエスとイエス イエス イエスと叫ぼ~うよ~♪」と
終わらせる桜美林の校歌。

この選手権大会で5度も校歌を歌い上げ、その名(と効果)を
全国に知らしめる。

甲子園球場校旗掲揚・校歌斉唱

春選抜大会だからこそできる制度といえば何と言いましても2001年春、
第73回選手権大会から制定された21世紀枠。

何にもまして、この制度も例外ではなく、実は選抜大会で始められたもの。

実験的に始まり根付いたものは以外とけっこう多い。

陸上選手・人見絹枝さんがもたらしたもの

勝利チームの校旗掲揚と校歌斉唱が初めて導入されたのが
1929年の春第6回選抜大会。

主催者・毎日新聞社の社員であった、陸上選手の人見絹枝さんの
アイデアでありました。

この前年、アムステルダム・オリンピックの陸上・女子800メートルに
出場し、日本女性初の五輪メダリストとなった人見絹枝さんは、
セレモニーでの国旗掲揚と国歌斉唱にいたく感動をしたといいます。

帰国後、甲子園球場での校旗掲揚と校歌斉唱を提案すると、
翌春の選抜大会から取り入れられるに至ったわけです。

同じ様に、人見絹枝さんの発案から実用化されたものには、
開会式の入場行進においての校名プラカードの先導があるのです。

このことも、前年にオリンピック開会式、国際大会での体験において
提言し、1929年の春選抜大会から取り入れられたものになります。

日本国内の背番号は春選抜大会から

野球の世界では今ではもう知っている、ユニフォームに縫い付けられた「背番号」。

アメリカのメジャーリーグで背番号が導入されたのが
1929年のニューヨーク・ヤンキースから。

一方、日本の野球シーンで初めて背番号が導入されたのは、
メジャー導入からたった2年後の1931年春第8回選抜大会から。

広い甲子園球場においても、どの選手がどこを守っているのであろうかを
認識しやすいようにするため、だとされています。

けれども、この背番号制度採用されたのって、どういうわけかこの年のみで、
翌年からは背番号なしのユニフォームへと逆戻りする。

その後、1952年夏第34回選手権大会で、背番号が採用され、
そのことに習う形で、選抜大会でも、翌1953年から背番号が復活してきます。

これ以外にも、高野連連盟旗の掲揚(1949年第21回選手権大会)、
事故防止を目指した耳付きヘルメットの義務化(1972年第44回選手権大会)、
選抜大会がきっかけとして始まったものはけっこう多い。

こんなふうに、野球界に新しい風を起こすのが、春選抜大会の役割りの1つ、ともいえる。

21世紀枠同様、新しく取り組みに向っていく柔軟性、対応力も
春選抜大会の魅力だったりします。

21世紀枠は春選抜大会に個性と多様性をもたらした

21世紀枠形式で初めての春選抜大会が開催された2001年。

この年から開始し、夏の選手権大会にはない独自の制度として
定着したのが「21位世紀枠」。

夏の選手権大会に対抗しようと、常日頃から新機軸にトライしてきた
春選抜大会っぽい制度といえます。

震災復興、部員10人、ボランティア活動。

主催者となっている毎日新聞社においては、
《勝敗にこだわらず多角的に出場校を選ぶ、選抜大会の特性を生かし、
 技能だけでなく高校野球の模範的な姿を実践している高校を以下の
 基準に沿って選ぶ》と考えている。

その基準とは、
1.秋季都道府県大会のベスト16以上が対象
2.少数部員、施設面のハンディ、自然災害など困難な環境の克服
 学業と部活動の両立
 試合成績が良好ながら、強豪校に惜敗するなどして甲子園球場出場
 機会に恵まれていない
 創意工夫した練習で成果を上げている
 校内、地域での活動が他の生徒や他校、地域に好影響を与えている

実際に、今までに部員10人、ボランティア活動に積極的、
データ野球を駆使した進学校、東日本大震災からの復興を目標にする学校、
毎回そうですが特色豊かな学校が選ばれ、選抜大会の注目点となっている。

21世紀枠出身のプロ野球最多勝投手

ただ、問題点もある。21世紀枠で選ばれるには
「都道府県ベスト16以上」(当初はベスト8以上)という条件になっているが、
それのみでは強豪校といった実力差がかなりあって。

これまでに出場した、21世紀枠の大半が初戦敗退。

さらには、一方的な試合になる傾向にある、と言う部分。

そのような中で、21世紀枠でもやれてしまう! と旋風を巻き起こした。

初年度の2001年春第73回選抜大会に出場した、宜野座(沖縄)。

独特な変化球「宜野座カーブ」を操るエース・比嘉裕を中心にすえた
鉄壁の守りと、長打はなくても粘り強く犠打を重ねる無駄のない攻撃でベスト4に進出する。

準決勝で仙台育英(宮城)に1対7で完敗したけれど、文句なしの大健闘であった。

宜野座はこの選抜大会での経験を役立て、同年夏の選手権大会にも初出場します。

1回戦で仙台育英(宮城)と再戦し、今度は7対1で勝利し、完全無欠なリベンジを遂げている。

他にも、2009年の利府(宮城)がベスト4に進出。
2008年の21世紀枠、成章(愛知)のエース・小川泰弘は、後にプロ野球で最多勝投手となる。

21世紀枠で甲子園球場の土を踏んだ経験が、将来の飛躍に達したというわけです。

1929(昭和4)年
春第6回選抜大会優勝 第一新港商(兵庫)
夏第15回選手権大会優勝 広島商(広島)
1929(昭和4)年
春第6回選抜大会優勝 第一新港商(兵庫)
夏第15回選手権大会優勝 広島商(広島)
1931(昭和6)年
春第8回選抜大会優勝 広島商(広島)
夏第17回選手権大会優勝 中京商(愛知)
1949(昭和8)年
春第21回選抜大会優勝 北野(大阪)
夏第31回選手権大会優勝 湘南(神奈川)
1952(昭和27)年
春第24回選抜大会優勝 静岡商(静岡)
夏第34回選手権大会優勝 芦屋(兵庫)
1953(昭和28)年
春第25回選抜大会優勝 洲本(兵庫)
夏第35回選手権大会優勝 松山商(愛媛)
1957(昭和32)年
春第29回選抜大会優勝 早稲田実(東京)
夏第39回選手権大会優勝 広島商(広島)
1972(昭和47)年
春第44回選抜大会優勝 日大桜丘(東京)
夏第54回選手権大会優勝 津久見(大分)
1976(昭和51)年
春第48回選抜大会優勝 崇徳(広島)
夏第58回選手権大会優勝 桜美林(西東京)
1999(平成11)年
春第71回選抜大会優勝 沖縄尚学(沖縄)
夏第81回選手権大会優勝 桐生第一(群馬)
2001(平成13)年
春第73回選抜大会優勝 常総学院(茨城)
夏第83回選手権大会優勝 日大三(西東京)

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