1982(昭和57)年春第64回選手権大会、1983(昭和58)年春第55回センバツ大会 金属バット時代制する公立の雄・徳島県代表池田高校「やまびこ打線」

公立校とし甲子園高校野球史上初の春夏連覇を達成した、
1979(昭和54)年春第51回センバツ大会、
夏第61回選手権大会、和歌山県代表・箕島高校率いるは、
「勝負師」尾藤公監督。

箕島高校と交代するかのように、1980年代前半、
公立最強の座を引き継ぐのは、徳島県立池田高校です。

この代名詞が、打てば響く「やまびこ打線」。

甲子園高校野球のアイドルを襲ったハイレベルなパワー打線

甲子園高校野球の歴史を考えると、
時代時代でセンセーショナルな「打線」が、
甲子園高校野球で快音を響かせてきた。

1950(昭和25)年
夏第32回選手権大会で決勝進出をやり遂げた。

鳴門(徳島)の「うず潮打線」。

このとき、第32回甲子園高校野球選手権の優勝校は、
愛媛県代表・松山東。

鳴門(徳島)は、翌年1951(昭和26)年
第23回甲子園高校野球センバツ大会で優勝します。

1974(昭和49)年夏第56回選手権で勝った、
銚子商(千葉)の「黒潮打線」が代表格。

銚子商(千葉)の黒潮打線が大活躍した、
1974(昭和49)年夏から導入された、金属バットです。

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フルスイングをすると、これ迄にない飛距離と、
打球速度をもたらす金属バットを可能な限り活かすために、
ウェイトトレーニングでの筋力アップで
破壊的な打撃力を得た「やまびこ打線」。

「打て」のサインしか送らない
「攻めダルマ」蔦文也監督の野球観のまとめたもの。

徳島県立池田高校「やまびこ打線」が
破壊力を振るった代表的な試合があるのです。

1982(昭和57)年夏第64回甲子園高校野球選手権大会、
準決勝の早稲田実業(東東京)戦です。

5季連続出場を果たし、
優勝候補ということでラストの夏に挑戦した
「甲子園球場のアイドル」荒木大輔投手をメッタ打ち。

毎回と全員の20安打を放ち、14対2でぶっちぎり。

2年生スラッガー水野雄仁は、
リリーフ登板した石井丈裕からの
満塁ホームランを入れて、ホームラン2本の大当たり。

「阿波の金太郎」の名で名付けられるようになった、
早稲田実業戦の猛打振りでブレイクした、
池田高校は決勝でも「守りの広商」と言われる、
広島商(広島)を12対2で圧倒。

前例がないパワー野球で、
甲子園高校野球界の頂点に舞います。

エースで4番・畠山準と水野雄仁といった、
共にドラフト1位でプロ野球界入りをやってのける、
2人を中心として打ち放ったヒット数は、
大会通算85本、ホームラン数7本。

いずれも大会記録であった。

史上4校目の夏春連覇

池田高校(徳島)は、
1983(昭和58)年春第55回センバツ大会でも猛打炸裂する。

1,2回戦いずれも2ケタ得点で圧倒すると、
あっという間に決勝戦へ。

守りは、新エース・水野雄仁が
5試合45イニングを投げ込み自責点0。

決勝も2安打完封と投打に圧勝し、
史上4校目の夏春連覇に成功します。

1983(昭和58)年夏第65回選手権大会、史上初の3季連覇は、
準決勝で桑田真澄・清原和博の1年生KKコンビ擁する
PL学園(大阪)に破れ、達成はしないが、
時代を先取ったパワーやまびこ打線は迫力のある強さであった。

1974(昭和49)年春第46回センバツ大会、1982(昭和57)年夏第64回選手権大会、1983(昭和58)年春第55回センバツ大会、徳島県代表・池田高校攻めダルマ蔦文也監督の伝説

監督本と言われるジャンルが、
甲子園高校野球本の世界には存在しています。

組織論、リーダーシップ論、
名言集と視点本は豊富に出版しています。

このような監督本を一般公開する契機とも言えることが、
「攻めダルマ」と伝えられて、
池田高校(徳島)の名物監督・蔦文也氏。

“一度でいいので大海を目に触れさせてやりたかったんじゃ”
自分自身も徳島校の野球部員となって
甲子園球場に3度出場してるのです。

東急フライヤーズ(現・日本ハム)の投手となって
プロ野球界も経験した蔦文也が、
池田高校野球部員の監督に就任が、1952(昭和27)年。

ながらく自らの母校・徳島商の高い壁に封じられ繰り返し、
全国の甲子園高校野球の舞台には立てなかったが、
監督の就任から20年目の1971(昭和46)年
夏第53回選手権大会で、ついに甲子園高校野球初出場する。

この時点で出た名言が、
「山間の町の子供たちに、
 一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」。

この言葉は、
今も池田高校の敷地内に残る石碑に刻まれている。

大海=甲子園球場で、
池田高校がセンセーションを引き起こした、
1974(昭和49)年春第46回選手権大会。

野球部員がほんの11名といった少数精鋭野球部員が、
開会式後の第1戦でドカ~ンとホームスチールを決め、
ファンの心を鷲掴み。

「奇襲戦法じゃなければウチは勝てん。
 ムチャクチャやりますわ」と笑顔を見せた
蔦文也監督の元、試合事にラッキーボーイが現れて、
準優勝の快挙。

優勝した報徳学園(兵庫)というよりも、
敗れてしまった池田高校が「さわやかイレブン」として
語り継がれるのです。

明日はワシを日本一の監督にしてください!

1979(昭和54)年夏、2度目の決勝の舞台に立てた
蔦文也監督だけども、
春夏連覇を達成する箕島(和歌山)に敗れ、準優勝。

頂点をつかむことを考えて、
筋力トレーニングを頑張って取り込んで、
破壊力ある「やまびこ打線」を育てます。

1982(昭和57)年
夏第64回選手権大会で3度目の決勝進出を。

その決戦前日の夜、
「ワシから野球を取ったら、酒しか残らん」がきまり文句で、
この日もいつもと同様に宿舎で酒を飲んでいた
蔦文也監督が、突然のよう野球部部員に向ってお話しする。

「あすはワシを日本一の監督にしてください!
 お願いいたします!」

本当に、次の日のやまびこ打線は、12得点の猛攻撃を。

蔦文也監督は、悲願の「日本一の監督」ということです。

翌1983(昭和58)年
春第55回センバツ大会の制する池田高校は、
甲子園高校野球史上4校目の夏春連覇の成功を。

その当日4月5日付けで刊行された、
蔦文也監督による生まれて初めての
単著『攻めダルマの教育論』。

この本は、甲子園高校野球ファンではない
世代を通しても支持を集め、
監督本ジャンル桁違いのベストセラー(ヒット)を。

1983(昭和58)年夏第65回選手権大会、1984(昭和59)年春第56回センバツ大会、夏第66回選手権大会、1985(昭和60)年春第57回センバツ大会、夏第67回選手権大会 KKコンビの伝説

背番号11の1年生エース・早稲田早実(東東京)の荒木大輔が
甲子園球場を席巻したのが、
1980(昭和55)年夏第63回選手権大会。

5期連続で甲子園高校野球のマウンドに立ち続け、
通算12勝5敗の好成績を残した、
荒木大輔が卒業した1983(昭和58)年、
交代するごとく背番号11を付けた1年生エースが
甲子園高校野球に姿を見せます。

荒木大輔と同じく、
5季連続で甲子園高校野球のマウンドに上がり走り続けた、
その投手こそ、学制改革以降になると史上唯一の
「甲子園高校野球20勝投手」、
PL学園(大阪)の桑田真澄です。

甲子園高校野球通算20勝3敗、防御率1.54。

身長174センチ。強豪校の投手だと小柄なのに、
類い稀な野球センスで1年夏からベンチ入りを
やり遂げた桑田真澄。

大阪大会での活躍から甲子園球場では
主戦投手に抜擢され、荒木大輔投手の卒業した
甲子園高校野球に出現したニューヒーローとなって、
あっという間に人気の的に。

準決勝で、優勝候補一番手、
3季連続優勝を目標にしていた、
池田高校(徳島)と勝負します。

一人残らず、池田高校の勝利を想像する中、
桑田真澄投手は池田高校「やまびこ打線」を完封する。

池田高校時代からPL学園時代へ!

政権交代を告知する甲子園高校野球歴史的試合に。

その勢いのまんま決勝で横浜(神奈川)を破り、
1年生で全国制覇の喜びを知る桑田真澄投手。

この大会はもちろんですが、
3年間の甲子園高校野球通算成績

・1983(昭和58)年夏第65回選手権大会
 6試合4勝0敗(完封2)優勝

・1984(昭和59)年春第56回センバツ大会
 4試合3勝1敗(完封1)準優勝

・1984(昭和59)年夏第66回選手権大会
 6試合5勝1敗 準優勝

・1985(昭和60)年春第57回センバツ大会
 4試合3勝1敗(完封1)ベスト4

・1985(昭和60)年夏第67回選手権大会
 5試合5勝0敗(完封1)優勝

4月1日誕生し桑田真澄は、
将来的にも並ぶのはあったとしても破られることとは
無縁の「史上最年少優勝メンバー」(学校改革以降)に。

通算25試合登板で、
20勝3敗(完封5)、防御率1.54。

清原和博との「KKコンビ」の一翼とし、
常勝PL学園の屋台骨を支え続けたのです。

甲子園高校野球歴史上最高の二刀流選手!

桑田真澄を語るならばキーポイントとなるのが
打撃面での大活躍です。

1年時は池田高校戦による迫力満点の
2ランホームランが含まれた、2本塁打。

3年間でホームラン6本。

このことは1位の清原和博(10本)に次ぐ、
甲子園高校野球大会2位タイの記録です。

桑田真澄投手は、
「甲子園高校野球史上最高の二刀流選手」
と言えます。

こういった好打者が清原和博の後方を
打っていましたので、
その頃のPL学園は最強のチームであった。

大阪代表・PL学園清原和博3年間甲子園高校野球13ホーマーKK伝説

ホームランは野球の華。

その曲線を、大甲子園球場でもっとも描いた男が、
大阪の強豪校・PL学園「KKコンビ」清原和博。

1983(昭和58)年夏第65回選手権大会、
名門PL学園の「1年生4番」として甲子園高校野球に
初登場して以降は、5季連続で出場続けていく清原和博。

5大会26試合で13本。
2試合に1本のペースで打ちまくってきました。

出発点は3タコ、4タコ!

2試合に1本のペースというのに、
最初から打っていたということではありません。

それどころか、
甲子園高校野球デビューから2試合はノーヒット。

KKコンビの盟友、桑田真澄投手が完投勝利、
完封勝利といったダントツのデビューであったと思えば、
清原和博は3タコ、4タコでのスタートです。

けれども、4試合目の準々決勝。

桑田真澄投手が初めてのノックアウトされていた試合で、
清原和博はチームを勝利へと導く3打点の快進撃。

次の試合、準決勝の池田高校戦は、
4打数4三振となぜか良さがなくて、
ホームランと完封勝利を確定した
桑田真澄投手の引き立て役だけど、
決勝だと再び清原和博が炸裂し、
先制の甲子園高校野球初ホームラン。

KKの2人が代わる代わる快進撃を演じ、
誰一人として予想し得なかった、
1年生のエースと4番での全国制覇という
伝説を作り出します。

甲子園高校野球は清原のためにあるのかっ!

ホームランの数ではない清原和博選手のすごさを、
甲子園高校野球の成績から想い返して見る。

・1983(昭和58)年夏第65回選手権大会
 23打数7安打5打点1本塁打 優勝

・1984(昭和59)年春第56回センバツ大会
 17打数8打点3本塁打 準優勝

・1984(昭和59)年夏第66回選手権大会
 21打数10安打7打点3本塁打 準優勝

・1985(昭和60)年春第57回センバツ大会
 14打数5安打1打点1本塁打 ベスト4

・1985(昭和60)年夏第67回選手権大会
 16打数10安打8打点5本塁打 優勝

注目に値するは、5大会で91打数40安打、
打率.440だという的確さ。

名門校で1年から4番の役割を果たしたことで、
ただただ遠くに飛ばすだけに限らず、
勝利するチームバッティングを身に付けた清原和博です。

その中でもラストの夏、
プレッシャーのかかる準々決勝からはで、
10打数7安打、ホームラン5本。

決勝戦ではチームを優勝を
達成させる2打席連続ホームラン。

そのすごさを知らせる、
朝日放送の植草貞夫アナウンサーは、
実況中このような名文句を残します。

「甲子園高校野球は清原和博のためにあるのかっ!」

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