甲子園球場ハプニング続出

「JOBK、こちら甲子園球場臨時放送所であります」。

甲子園球場中継の歴史に残る第一声を発したとされるのは、魚谷忠アナウンサー。

昭和初開催(昭和2年)となった1927年の第13回大会。
8月13日午前9時5分のことなのです。

魚谷忠アナウンサーは、1916年の第2回大会で市岡中(大阪)の
三塁手となって準優勝に貢献した選手。

ふさわしい経歴から、「野球経験者は、魚谷だけなので1人で全部やれ」と、
世が世ならブラックな指令が下ります。

8日間の渡る全試合を1人で実況することになってしまったのです。
本来は、そこに至るまで5分ほどの短いニュースのみしか読んだことが
なかったと言われる魚谷忠アナウンサー。

悪戦苦闘状態での実況放送がスタートします。
炎天下の中、蝶ネクタイに背広姿でネット裏の放送席に座り込んで、
横には市岡中の後輩野球部員がスコア係りという形で同席しておりました。

とは言うものの最初は、
「バッター打ちました! 大きい! 大きい!」ばっかりで、
どっちに打球が飛んだのかサッパリ感じ取れないなど、
放送は言ってみれば試行錯誤の連続でした。

そつなく守備位置が言えた場合も、
「打ちました。大きなフライ! アッ、センター捕りよった。
エライやっちゃー」とはからずも大阪弁が飛び出してしまったと言う
伝説的な裏情報も存在するのです。

スポンサーリンク

役人監視の元に行なわれた初の野球実況

その他にも、その時郵便や通信を管轄した逓信省の役人が隣で監視し、
「外野の塀に書かれた商品などの広告にボールが命中した時は、
宣伝となるのでその商品を言ってはいけない」と細かい注文がつく、
プレーを実況するだけではなく苦労がほとんどだったと言います。

当初、主催者である朝日新聞社内では、
「ラジオでは放送された球場へ来る人が減るかも知れない?」と
異議を唱える声も大勢いたが、何と言ってもこの実況放送は拍手喝采。

魚谷忠アナウンサーにファンレターも送られてくる人気振りだったのです。

このようにして、野球中継のアナウンスは着実に市民権を獲得して、
これからさまざまな名実況を生み出す結果となるのでした。

斎藤祐樹「ハンカチ王子」が甲子園球場を席巻した

早稲田実91年越しの夢夏の王者となったハンカチ王子の武器

春夏どれも第1回大会から出場。
1957年春を制した王貞治、1980年から5季連続の甲子園高校野球出場で、
「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした荒木大輔と、時代時代で
スターを世に送り出して来た早稲田実。

それはそれで手が達しなかった夏の深紅の優勝旗についに手をかけるということが
許された男、それが2006年の斎藤祐樹投手です。

トレードマークの汗を拭う青いハンカチ。

大敗の悔しさからハンカチを導入

斎藤祐樹投手の甲子園高校野球初出場は、
2006年春第78回選抜大会。初戦を完封で飾り、迎えた2回戦。

関西(岡山)戦は、まさに死闘。
7対7で延長15回まで決着が付かず、引き分け再試合へ。

斎藤祐樹投手はこの1試合のみで231球を投げるが、翌日の再試合でも
3回から登板して7イニング103球の熱投。

2日間で334球を要し、勝つには勝ったのですが、続く準々決勝で、
この大会で優勝する横浜(神奈川)と対戦します。

疲れが抜け切らなかったのか3対13と大敗を喫している。
ところが、この悔しさが夏に向けて起爆剤となっていました。

厳しい夏の戦いを克服するため、斎藤祐樹投手は春から夏の
短い期間に2つの武器を手に入れたのです。

それこそが、疲れづらい投球フォームと青いハンカチ。
ハンカチはただの汗を拭うだけに限らず、ピンチがくると頭に
血が上がり、投球がワンパターンとなってしまう自分に
落ち着きを取り戻すため、ある種のスイッチの役目となったのです。

甲子園史上初”春夏”延長引き分け再試合

迎えた夏、2006年第88回選手権大会2回戦。

春選抜大会王者・横浜(神奈川)を打ち負かして勢いに乗っていた
大阪桐蔭(大阪)と対戦。

2年生ながらも4番を打つ中田翔から三振3つ、毎回の12奪三振。

以降も毎試合完投を続け、夏3連覇に挑む
北の王者・駒大苫小牧(南北海道)との決勝に進出。

相手エース・田中将大との投げ合いは延長でも決着が付かず、
15回引き分け再試合に。

同年の春と夏、両方で延長引き分け再試合を演じたのは、
史上初。翌日、史上最多7試合目の先発で4連投となった
斎藤祐樹投手ですが、またも完投。

最後の打者の田中将大投手から三振を奪い夏の選手権大会初優勝。

1915年第1回大会から数えて、91年越しの悲願達成でした。
この死闘をスタンドで目撃したのが、その当時小学1年生の
清宮幸太郎君でした。

早稲田実に憧れた野球少年は、
9年後同じ「WASEDW」のユニフォームを着て甲子園球場に
戻って来るのです。

甲子園球場高校野球の隆盛を築いた佐伯達夫氏

古くは野球と猛特訓はワンセット。
まして戦前ともなれば、鬼のようなシゴキは当たり前な時代だった。

大会黎明期において、球児たちにそういった”シゴキ”を与えたのは
監督じゃありませんでした。

その当時はまだ、監督といった存在が見られなかった時代です。

中学野球の指導をしていたというのは、もっぱら「鬼コーチ」の
役目であり、その任に付くというのは、中学卒業後に大学で薫陶を
受けたかつてのOBたち、と言われるのが相場でありました。

「野球(のぼーる)」の俳号を持ち「打者」「走者」
「四球」「直球」と、数え切れないほどの野球用語の日本語訳に力を注いだ
俳人・正岡子規も、帰省した際には、母校の松山中(現松山東/愛媛)で
後輩たちに野球を教えていたと言われています。

そういった鬼コーチの1人に、高校野球史を語る上で、どうしても必要な
人物がいらっしゃる。後に高野連会長として高校野球の隆盛を築く佐伯達夫氏です。

1916年第2回大会で、大阪代表として出場した市岡中のコーチを
務めたのが、その当時早稲田大学の選手だった佐伯達夫氏。

母校の後輩たちに、
「お前らはそう人に優れたものがあるわけではない、
それで勝ち抜くには人の2倍3倍も努力しなければならない、
それが唯一の道だ」と言われて、猛ノックの日々。

ある選手は「こんな苦しい野球など、(将来生まれてくる)自分の
子供にはやらせない」と考えたほどの”シゴキ”で
実力を伸ばし、晴れて大阪代表の座を掴むことになります。

このときの市岡中メンバーはたった9人。
この人数しか、佐伯達夫先輩の猛練習についてこなかったという事実。

母校市岡中を準決勝に導いた「高校野球の父」佐伯達夫氏

迎えた全国の晴れ舞台。市岡中のエース・松本終吉は2回戦で
大会史上初となるノーヒットノーランを達成します。

しかし、延長戦においてもつれた準決勝では大事な右肩を痛めてしまって、
決勝戦ではマウンドに立つことが許されなかった。

慶應普通部(東京)に破れ準優勝に。
佐伯達夫鬼コーチは試合後、
「松本終吉が故障しなかったら負けなかったんだがなぁ」と悔しがった。

その後、佐伯達夫氏は、母校にとどまらず学生野球全体の鬼コーチ的な
存在になっていくのです。

1946年に全国中等学生野球連盟(後の高野連)の設立に励み、
自分自身も3代目の高野連会長に就任します。

その並はずれて強烈なリーダーシップから、
「佐伯天皇」と皮肉られることもあったのですが、佐伯達夫氏の
元で高校野球は想像以上に成長を遂げたのです。

そんなわけで、「高校野球の父」と呼ばれています。

1915(大正4)年
夏第1回大会優勝 京都二中(京都)

1916(大正5)年
夏第2回大会優勝 慶應普通部(東京)

1927(昭和2)年
春第4回選抜大会優勝 和歌山中(和歌山)
夏第13回選手権大会優勝 高松商(香川)

1946(昭和21)年
春第2次大戦のため中止
夏第28回選手権大会優勝 浪華商(大阪)

1957(昭和32)年
春第29回選抜大会優勝 早稲田実(東京)
夏第39回選手権大会優勝 広島商(広島)

1980(昭和55)年
春第52回選抜大会優勝 高知商(高知)
夏第62回選手権大会優勝 横浜(神奈川)

2006(平成18)年
春第78回選抜大会優勝 横浜(神奈川)
夏第88回選手権大会優勝 早稲田実(西東京)

スポンサーリンク

タイトルとURLをコピーしました