甲子園高校野球最速王155キロ2人154キロ3人

甲子園高校野球ではじめて155キロを投げた球児とは、
「みちのくのプリンス」と言われていた仙台育英(宮城)の佐藤由規投手。

試合は2007(平成19)年夏第89回選手権大会、
1回戦の智弁和歌山で、150キロ台のストレートを繰り返し、
毎回の17奪三振を記録して勢いに乗りますと、
次なる2回戦、智弁学園(奈良)の4回裏、
カウントボール2ストライクから投げた球のスコアボードが「155キロ」。

実況アナウンサーは、「155キロ!甲子園球場最速ぅー!」と
ついつい声を振り上げるのです。

試合として敗れたけれども、高校野球の歴史に明確な足跡を残します。

次にこの155キロを記録したというのは、
2013(平成25)年夏第95回選手権大会に出場した、
済美(愛媛)の2年生エース・安楽智大投手。

同年2013(平成25)年春第85回選抜大会では、準優勝。

愛媛県大会では、157キロも計測する豪腕ぶりを発揮し、
「愛媛の怪童」と称される。

最速155キロに及ばずながら、154キロを投げた球児は3人。

2001(平成13)年夏第83回選手権大会、日南学園(宮崎)の寺原隼人投手。

154キロはその次の甲子園高校野球最速記録。

メジャーリーグ・スカウトのスピードガン表示からは157キロを記録。

2009(平成21)年夏第91回選手権大会では、
明豊(大分)の今宮健太投手が、154キロを記録。

身長171センチの小さな体からでは想像ができない剛球から、
「小さな巨人」の異名で人気抜群の。

そして、同じ2009(平成21)年夏第91回選手権大会では、
花巻東(岩手)の左腕・菊池雄星が154キロをマーク。

このことは今もって、高校生左腕の甲子園高校野球最速記録です。

大谷翔平・高校球児初の160キロ!

見逃してはいけない、菊池雄星と入れ替わりで、花巻東の門を開いた大谷翔平。

2年夏の2011(平成23)年夏第93回選手権大会では、
駒大苫小牧(南北海道)時代の田中将大投手以来である、
2年生での150キロを計測する。

終わりの夏、甲子園球場にはたどり着けなかったが、
岩手県大会準優勝で、高校生史上初である球速160キロを記録する。

のちのち、プロ野球最速165キロを投げる男の礎は甲子園球場を目指す日々なのです。

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甲子園球場プラカードガールは男女共学を持ち出す学制改革の象徴

学制改革から2年が経過した1949(昭和24)年。

この年、夏の甲子園高校野球はさまざまな変化が見られた、第31回大会なのです。

さしあたって、ラッキーゾーンの常設設置。

ベーブ・ルースですら「Too Large(デカすぎだ)」と驚いてしまうマンモス球場の
両翼が大幅に狭くなることによって、ホームランが出やすくなったのです。

そして、今に続く大変身が開会式の入場行進での「プラカードガール」による先導です。

甲子園高校野球にもどうにかこうにか女性の波が巡ってきました。

学制改革とプラカードガール!

プラカードガール導入の手がかりは、いわば戦後の学制改革だったのです。

旧制中学から新制高校への移行と合わせ、校名を変える学校はほとんどで、
各地区からの代表校にも数えきれないくらいの「新制高校」が出場します。

まだ馴染みのない学校名を印象つけることから、校名の書かれたプラカードを
女子生徒に持っていただき、入場行進の先導役を採り入れる案が採用されます。

また、学制改革に合わせてたくさんの男女共学校が現れた社会背景も存在して、
「甲子園高校野球でも何か新機軸を!」「女性も大会に参加していただこう」
というような理由も急展開で。

この「プラカード先導」の検討会議に籍を置いていたというのが、甲子園球場から
程近い場所に位置する市立西宮高校の岸仁教諭。

「それじゃあ、うちの女生徒で」と快諾。
市立西宮高校も、戦前は女学校だったけど、男女共学校に変わったばっかりです。

「変革」を打ち出すには適任だったのです。

祖母、母、娘3代プラカードガールも!

それまでは市立西宮高校の3年生が勤めていましたプラカードガール。

けれども、「先導したチームが勝ち上がると受験勉強に差し障るが見られる」と
2年生が担当することになり、現在では1年生も先導役を務めることがほとんどです。

プラカードガールになってみたい、と市立西宮高校に通う女生徒もたくさんいて、
毎年倍率は2倍、状況によっては3倍にも及ぶくらいの狭き門です。

過去は、祖母・母・娘3代に渡ってプラカードを手にした女生徒もいるのなら、
抽選の縁故で担当したチームの選手と結婚にいたる例も見られるのです。

やり始めプラカードガールを選んだ、1949(昭和24)年当時の選考基準は、
「身長155センチ以上、身体強健、運動選手、容姿端麗」。

現在では運動選手にとらわれることなく、また時の移り変わりで、「容姿端麗」の
条件も取り除かれているのです。

選び抜かれた女生徒は抽選で担当校が決まり、行進の練習を行って開会式に挑みます。

ここにもまた、「甲子園球場への道」があるわけです。

甲子園球場が3日間燃え続けた!

戦争によって、甲子園球場大会の灯火が消えたというのは、1941(昭和16)年。

翌年1942(昭和17)年には文部省主催の全国競技大会が開催(野球も入る)
されるが、この大会一回だけ。

戦火はますます激しさを増し、野球どころではない時代へ引き込まれる。

甲子園球場もその姿を大きく変えることになります。

姿を消した甲子園球場のシンボル

1943(昭和18)年、甲子園球場からシンボルが姿が見えなくなる。

バックネットからアルプス席まで観客席を覆っていた「鉄傘」です。

これまでは「天気に関係なく試合を行うラグビーを開催しても、
雨を気にしないで観戦できますように」と設置したこの鉄傘。

雨にとどまらず日焼けを心配する必要も無く、日中の野球観戦が望めると、
思いも寄らない形で女性観客より支持を集めています。

しかし、馬鹿な内閣が軍隊化、戦争ですので軍艦を製造、国民総出で
鉄を集め実行する。

甲子園球場とて例外ではないと言えます。
8月18日、いよいよその甲子園球場の鉄傘は姿を消します。

鉄傘の総重量は10000トン。
1トン当たりの売値は90円、全体で9万円の値段がついてきますが、
供出後はどういうわけか放置されたまま、軍需物として日の目を見ることはなく、
軍艦などは生産されなく本当によかったです。

1934(昭和9)年夏第20回選手権大会を記念して、球場の側に建造した
高さ約30メートルの野球塔も、戦闘機の邪魔になるとして撤去されている。

野球塔には、第1回大会からの優勝校名と選手名を刻んだ銅版が
設置されていたが、この銅版も軍に供出させられる。

貯蔵油に火が付き甲子園球場は廃墟に!

1944(昭和19)年春、軍による球場接取が決定する。

外野グラウンドが軍用トラックの駐車場に、内野グラウンドは芋畑に
姿を変えられる、1945(昭和20)年8月16日、甲子園球場も空襲で炎上。

保管していた貯蔵油に火が付き、消えるまで3日間も必要となる。

アルプススタンドを支えていた鉄骨アーチは高温でグシャリと曲がり、
甲子園球場は廃墟になってしまう。

しかし、日本の戦後復興が目覚ましく、甲子園球場もあざやかな復活劇を見せる。

戦後は、米軍に接収されていたが、1947(昭和22)年には解き放つ。

1951(昭和26)年は、観客席に屋根が再設置させたのです。
全席は銀色のアルミ合金製だったこともあって「銀傘」と呼ばれるようになって、
まぶしく銀色に輝く屋根は再び甲子園球場の名物に。

ますます時を経て、2010(平成22)年の甲子園球場大リニューアル工事に合わせ、
姿を消していた野球塔も復活。

改まって、春と夏それぞれの大会の歴史優勝校名を刻んでいる。

甲子園球場決勝のドラマ奇跡のバックホーム

風が吹く、勝負の世界で揶揄的に常用する。
不思議な力のことを、「風が吹く」。

甲子園球場では、物理的な風の力で試合展開に変化があることがおこります。

甲子園球場名物の「浜風」です。

ライト側からレストや本塁に向って吹く海風の力で、優勝の行方が左右されたというのが、
8月21日1996(平成8)年夏第78回選手権大会決勝戦。

松山商(愛媛)vs 熊本工(熊本)の延長10回裏、「奇跡のバックホーム」と
呼ばれたビックプレーです。

サヨナラの場面で代わったライトに!

25回目の出場で夏4度の優勝を誇る松山商と、14回目の出場で初優勝を目指す
熊本工と古豪同士の対決になった決勝は、3対2と松山商1点リードで
9回裏、2死走者なしの場合。

優勝までアウト1つに迫る。後が無い熊本工の打順は1年生の沢村幸明選手。

この沢村幸明選手がバットを振り抜くと見事な同点ホームラン。
3対3で延長戦へ。

延長10回裏、守る松山商は、熊本工の先頭打者、8番星子崇選手に二塁打を
許すと、犠打と四球で1死満塁。

この大ピンチに、松山商ベンチが取る作戦は、ライトの守備を代える。

チーム1の強肩矢野勝嗣選手がライトの守備位置に。
したなら、「変わった所に打球が飛び」の格言どおり、打球は矢野勝嗣選手が
構えるライト方向に。

テレビの実況アナウンサーが、「行ったー!これは文句なし!」と
叫ぶといった大飛球でした。

浜風が起こした奇跡のビックプレー!

これからが、浜風による「奇跡のバックホーム」。

打球が浜風で押し戻され、ライト矢野のグラブの中へ。
これで2死。それでも犠飛には十分な飛距離です。

熊本工の三塁走者・星子崇選手はタッチアップでホームへ走ります。

矢野選手はバックホームを試すがボールは山なりの大暴投と考えたその瞬間、
その返球は浜風の後押しを受け入れて速度を増し、しかも狙ったみたいに急降下。

「ここ以外ではアウトに出来ない」といった絶妙な位置で捕手のミットに収まり、
ホームタッチアウトを達成。

どういうわけであの大飛球がスタンドに及ばないで、あの大暴投でアウトに出来たのだろうか?

あり得ないプレーの連続に、甲子園球場は興奮と喧騒に包み込まれた。

野球は、ピンチの後にチャンスあり。

11回裏、松山商は「奇跡のバックホーム」を演じたばっかりの矢野選手の二塁打で出塁する。

このことで勢いに乗った松山商はこの回、試合を決定づける3得点。
こうやって、松山商が5度目の全国制覇を達成したというわけです。

甲子園高校野球史上初の大会連覇初代最強和歌山中

甲子園高校野球の歴史を振り返ると、各時代時代で「王朝」や
「最強チーム」と呼ぶべき学校が存在します。

その”初代”とも言える存在だったというのが、大会初の連覇を果たした和歌山中(現・桐蔭/和歌山)。

第1回大会から第14回大会まで、夏の選手権大会には、史上最強の14年連続出場。

中でもひと際輝いたというのが、主砲の井口新次郎を擁して史上初の連覇を
やり遂げた1921(大正10)年夏第7回選手権大会、1922(大正11)年夏第8回選手権大会。

最強打率で掴んだ初優勝!

これまで、大会常連校だというのにどうやっても決勝の舞台に立つことがが叶わなかった和歌山中。
その壁を突破したというのが1921(大正10)年に当たります。

この年1921(大正10)年の和歌山中は、地方大会から猛打が爆発。
32対0、39対0、11対1と、3試合で82得点を奪って優勝と代表権を獲得します。

その勢いのまんま、全国の舞台でも初戦が20対0、続く準々決勝も21対1。

準決勝が18対2と、圧倒的な攻撃力で決勝へと進める。
京都一商(現・西京都/京都)との決勝戦でも16対4と大勝。

大会通算打率.358は、1950(昭和25)年夏第32回選手権大会。
徳島の鳴門「うず潮打線」に破られるまで大会記録です。

まさに、最強打線で掴んだ初優勝です。

3年間で全国大会11連勝!

翌年1922(大正11)年夏第8回選手権大会。
前年までショートを守っていた井口新次郎がマウンドに立ち、
再び全国の舞台に戻ってきた和歌山中。

初戦を8対0、準々決勝を4対1、準決勝では2対1と、エース・井口新次郎の
踏ん張りで決勝戦に進出する。

迎えた決勝の相手は、神戸商(兵庫)。
7回終了時点で、0対4と追い込まれながら、終盤8回、9回の猛攻撃的な逆転優勝。

地元新聞は夕刊に間に合わせるため、もう神戸商が勝ったみたいな論調で、
記事を書いたこともあって、翌朝の新聞を読んで、神戸市民は落胆。

「神戸商の”夕刊優勝”」という言葉が生まれます。

和歌山中は、翌1923(大正12)年夏第9回選手権大会にも出場。

大会3連覇を目指して決勝にまで進めますが、後一歩届かず準優勝。

しかし、この3年間で全国大会11連勝。
まだ春の選抜大会がなかった時代(選抜大会は1924(大正13)年が第1回大会)、
もしあったならば、春夏連覇していたのでは、と夢に見るほど力強かった!

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