高校野球甲子園100年

高校野球甲子園1979年夏、和歌山県代表・箕島高等学校

1979(昭和54)年、
第51回春センバツ優勝校、和歌山県代表箕島高等学校
第61回夏選手権優勝校、和歌山県代表箕島高等学校

神様が創り上げた大勝負、
箕島高等学校 vs 星陵高等学校
延長18回2死から神業の連続

サイレンが鳴ったのは、
1979(昭和54)年、8月16日。

時計の針は午後4時6分を示していたのです。

第61回高校野球選手権大会9日目第4試合。
公立校としては史上初の春夏連覇を目標に
和歌山県代表箕島高等学校と、
その当時山下智茂監督統括する星陵高等学校(石川県)の
試合は、ドラマと奇跡で満たされた一戦になった。

2度の「2死無走者からの同点ホームラン」
試合は両方のチームが1点ずつをあげ延長戦に進出。

甲子園の照明灯に気が付くと灯りが点灯していました。
試合が動き出したのは、延長12回、先攻星陵高等学校が、
1点を勝ち越すのですが、その裏、
箕島高等学校は2死走者無しより起死回生の
同点ホームランでくらいつく。

そうするとその次は14回裏、
箕島高等学校がランナーを3塁まで
行ってサヨナラの場面。

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されど、ここは星陵高等学校が予想外の
隠しダマを見せてタッチアウト。
興奮の状態に相応しい甲子園球場は、
ますます喧騒が包んでいく。

むかえた延長16回表、星陵高等学校にタイムリーがもたらされ、
ふたたび勝ち越し。

その裏、箕島高等学校はまた2死走者無しと追い込まれ、
次打者は一塁になんてことのないファウルフライを
打ち上げてします。

しかし、このポイントで一塁手が信じられない転倒。
この年(1979)から甲子園球場に採用した、
ファウルゾーンの人工芝のつなぎ目に足を
奪われたからでした。

こうやって命拾いをした打者が打ち直すと、
12回のバトルをなぞる様に、打球は
左右間スタンドへ真っすぐ。

再度の同点ホームランが生じたその瞬間、
実況放送アナウンサーは、
「甲子園球場に奇跡は生きています!」と
大声を上げる。

36年後に甲子園球場のマウンドに立てたエース

試合は引分け再試合目前の延長18回裏、
箕島高等学校にサヨナラタイムリーがもたらされ、
3時間50分にわたる試合に何とかピリオドが打たれた。

星陵高等学校を下した箕島高等学校は、それ以降も勝ち躍進して、
悲願の高校野球春夏連覇を実現。

しかしながら、甲子園高校野球のドラマは、
それのみでは終りませんでした。

試合終了のサイレンが鳴り響き渡ったすぐ後に、
18回を一人で投げ抜いた
星陵高等学校の左腕エース・堅田外司昭(かただ・としあき)選手に
主審がやさしく近付いた。

見事な活躍ぶりを称え、
またこの試合を糧にしてもらいたいと、
堅田に試合球を渡すためです。

それから時は流れ、
箕島高等学校 vs 星陵高等学校の世紀の激闘から
36年後の2015年夏(平成27)「高校野球100年」の
一つの節目を記念となって、かつてスーパー高校生、
早稲田実業OBの王貞治さんでの始球式がなされた。

このとき、王さんに始球式の球を手渡した方が、
「敗退を糧に・・・」とボールを託され、
高校野球の審判員になった堅田さんであった。

高校野球甲子園、春夏1979(昭和51)年

公立校初の春夏連覇の箕島高等学校を強化した
「尾藤スマイル」。

甲子園高校野球春夏連覇達成校は、
高校野球100年の歴史で、たった7校。

その中6校は私立の野球名門校です。

全国高校野球を制するになると選手の
スカウトティングばかりか、
練習設備といった環境面も充分に揃えられている
私立校が優位にあるのは明らかです。

その中で、公立校で唯一無二、春夏連覇を
成し遂げたのが、1979年の和歌山県立箕島高等学校です。

率いたのは、尾藤公監督。
サヨナラが数多く、決勝に出てくれば
絶対に優勝したこともあって「勝負師」と呼ばれた男。

「尾藤スマイル」の原点
箕島高校野球部OBの尾藤さんが母校を
指導するまでになってきたのは、
1966(昭和41)年秋のこと。

したなら、監督3年目の1968(昭和43)年、
春(第40回甲子園高校野球センバツ優勝校埼玉県大宮工)、
以後プロでも大エースとなる東尾修を
擁してセンバツ初出場。

このとき、尾藤監督はまだ25歳、それから2年後
1970(昭和45)年春。
こっちもプロで頭角を現すエースで4番、
島本講平を擁して、
第42回高校野球センバツ大会で初優勝。

20代で、
甲子園高校野球監督の仲間入りを果たします。

尾藤監督いったら、試合中「尾藤スマイル」
と呼ばれており、笑顔を絶やさず選手たちの
のびのびとプレーするスタイルで知られています。

だけど、20代の頃の指導方針とは
スパルタそのものズバリ。
ノックを行う時の目が殺気立っていたので、
選手からずっと「日本刀」と恐れられた。

しかしながら手厳しい指導は、
勝利している時は評価を受けても、
成績に影響が出ると批判の対象になる。

センバツ優勝からたった2年後、
成績不振を理由として監督の座を追われてしまいます。

その後、2年間はボウリング場でお勤め。
この間、客のクレームに対しては怒りの感情を
顔に出さず、笑顔でサービスする接客法を
心がけたという意識が、「尾藤スマイル」の
原点となったらしい。

公立初の甲子園高校野球春夏連覇達成

1974(昭和49)年、監督に職場に復帰すると、
1977年春甲子園第49回大会で、2度目の
高校野球センバツ優勝を成就。

そうして、1979(昭和54)年、
尾藤監督と箕島高等学校にこそハイライトが現れる
1年になった。

それが、第51回センバツ大会で3度目の栄冠を
勝ち取ると、公立校初の春夏連覇をかけ、
1979(昭和54)年夏第61回高校野球選手権にも出場。

3回戦で対戦したのが、石川県代表の雄・星陵高等学校。
「高校野球伝説の名勝負」と言い伝えられる
死闘を延長18回の終いに、4対3でサヨナラ勝ち取ると、
それらの勢いの状態で決勝戦に。

決勝では、こっちも公立の雄・蔦 文也(つた ふみや)監督が
統括する徳島県立池田高等学校(徳島県)を4対3で打ち倒し、
悲願の高校野球全国制覇に輝く。

ここに、公立校初の春夏連覇の校が生まれました!

1956・57・58(昭和31・32・33)年甲子園高校野球

「世界の王」の青春時代血染めのボールと延長ノーヒッター

東京を代表する野球名門校「早実」こと早稲田実業。
その歴史は古く、野球部創部は、1901(明治34)年。

1915(大正4)年の第1回大会に出場した
初代出場校10校の中での1つ。

この第1回大会で優勝候補と言われていた
早実ですが、準決勝で黒星。

この時は、早実が優勝するほどに
何十年も強いられるとは誰も予測できないことです。

1915(大正4)年夏甲子園高校野球第1回選手権優勝は、
京都二中(京都)。

1924(大正13)年
甲子園高校野球春第1回センバツ大会でも、
たったの8校の初代出場校に決まった早実ですが、
このときは決勝で香川県代表高松商に破れ、
準優勝。

それに、1925(大正14)年夏の甲子園でも、
決勝で再度高松商に敗退。

頂点を手にできない時代が長く続いていました。

血染めのボールで手に入れた栄光

甲子園高校野球全国大会の舞台で輝ききれない早実。

それまでの嫌らしい流れを終わりにしたのは、以降に
「世界のホームラン王」ということで大活躍する王貞治選手だった。

1956(昭和31)年、1年夏から甲子園のマウンドを
踏んだ王選手でも、この頃は
「ノーコン病」と呼ぶくらい制球が定まらない
とんでもない甲子園でビュー。

ところが、ノーワインドアップ投法をマスターし、
制球難を乗り越えてチャレンジした、
1957(昭和32)年春第29回センバツ大会では、
初戦から準決勝まで3試合連続完封の好投。

高知商業(高知県)との決勝だと、
指先のマメが押し潰されても痛みにこらえ、
血染めのボールを投げ続け、早稲田実業に
甲子園センバツ初優勝の栄冠を招きます。

紫紺の優勝旗が箱根の山を越え、
関東にもたらしたのは初のことになります。

1957(昭和32)年夏春連覇にわたってチャレンジした
甲子園高校野球第39回選手権になると、
初戦の寝屋川(大阪)との試合で、史上初である
「延長戦ノーヒットノーラン」達成(11回)。

その次の準々決勝で惜敗して優勝には手が達しなかったが
条件に沿った投球センスは飛び抜けていた。

1957(昭和32)年甲子園高校野球第39回センバツ優勝は、
広島商(広島)。

「世界の王」へと続いている2試合連続弾。
高校2年生として、甲子園で実績を挙げた王選手。
とはいえ、このことは「投手」ということで。

「打者」での才能を発揮したというのが3年春。
1958(昭和33)年甲子園高校野球第30回センバツ大会。

初戦と準々決勝で、大会記録となる
2試合連続ホームラン。

大打者となる未来を予感させるものでした。
終わりの夏は東京大会決勝で敗れ、5季連続甲子園とは
いかなかった王選手ですが、以降に
「万が一甲子園に出ていれば満足してしまい
大学進学を選択していました」と語っている。

高校時代のやり残しが、
「世界の王」のパワーの源になったわけです。

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