甲子園球場の伝説・松井秀喜5打席連続敬遠

ラッキーゾーン撤去で本塁打減が想定されたせいで、
超高校級のパワーと打撃センスが抜群の状況に。

開催した同年1992(平成4)年夏第74回選手権大会。
星稜は初戦を11対0と大勝していきます。

この試合を目にして、「高校生の中に1人だけプロがいる」と、
松井秀喜選手を評価したのが、次に戦う相手、明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督。

勝てる可能性を少しであろうと高めるため、松井秀喜選手とは
張り合わないと試合前にもうすでに決めていたと言うのです。

甲子園史を揺るがす「松井秀喜5打席連続敬遠」。

敬遠、敬遠、敬遠、喧騒が繁殖する甲子園球場!

夏第74回選手権大会、星稜 vs 明徳義塾の試合。

松井秀喜選手の全打席を振り返れば、
1回表の第1打席、2死三塁といった勝負どころで敬遠。

3回表の第2打席、1死二・三塁といった絶好のチャンスだったがまたも敬遠。

5回表の第3打席、1死一塁の場面であってもまたまた敬遠。

ここまで、ランナーが塁上の場面であるがために松井秀喜は敬遠する。

その作戦は理解しながらも、甲子園球場はジワリジワリと騒がしく巻き込まれる、
試合は、星稜が1点を追う展開、終盤7回へ。

喧騒は甲子園球場の限度を越え社会的な問題に!

7回表松井秀喜選手第4打席の2死走者無し、
いくらなんでも勝負と思っている中またまた松井秀喜を敬遠する。

いよいよ観客席から「逃げることなく勝負しろ!」と、ヤジが乱れ飛ぶ、
そして、1点差のまんま9回表の第5打席。

2死三塁、単打でも同点というケースでも敬遠。
明徳義塾への不平不満と抗議でメガホンやゴミがグラウンド内に投げ込まれ、
試合が一時中止する騒ぎに見舞われる。

再開後、次は5番打者が倒れ、ゲームセット。

しかし、喧騒は甲子園球場の枠を飛び越し、
日本全国で議論を引き起こす社会的現象へと進行する。

松井秀喜選手との勝負を断念して試合で勝った明徳義塾の戦い方は賛否を呼びます。

正解はあきらかに1つではあるはずがない、だけども、確かなことが1つ。

この試合で1度もバットを振らせてもらえなかったことが、
むしろ松井秀喜選手の評価と価値を引き上げたという点です。

3ヵ月後に開催されたプロ野球ドラフト会議は、4球団が松井秀喜を1位指名。

「5打席連続敬遠」はのちのちメジャーまで持続する、「ゴジラ松井伝説」のプロローグでした。

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松井秀喜の生地で誕生から20年の秘話

1948(昭和23)年夏第30回選手権大会優勝校福岡県代表・小倉。

日本全国の夏音と聞いて連想するのは、高校野球ファンだとしたら、バットから響く快音、
ブラスバンドでの熱奏、ラジオから実況アナウンサーの熱い声とあれやこれや。

その中においても代名詞というと、夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」ではないかと思います。

作曲は、早稲田大学応援歌「紺碧の空」、慶応義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、
阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」、読売ジャイアンツ応援歌「闘魂込めて」、
数々の応援歌、行進曲を手掛け、和製スーザ(マーチ王)と呼ばれた、
古関裕而(こせきゆうじ)氏。

そして、作詞を担当したというのが、加賀大介氏の発表当時、作詞家の欄は
他の名前が書き綴られていたのであります。

応募総数5252通の新大会歌!

この名曲「栄冠は君に輝く」が、誕生したというのは1948(昭和23)年。

戦後の学制改革を契機にして、「全国中等学校野球大会」から
「全国高等学校野球選手権大会」に改称された
初めての大会ではあったことと、30回目の節目の大会であったということを記念し、
主催の朝日新聞社が新大会歌の歌詞を全国から募集。

応募総数5252通の中から、最終作品に選考された作品に書かれていたというのは、
「加賀道子」(本名・高橋道子)という名前なんです。

何を隠そう、文筆家として活動していた加賀大介氏が、懸賞金お目当てで応募したと
受け止められることを嫌って、その他には、フィアンセであった道子さんへの
プレゼントという意味を込め、加賀道子名義で応募したと聞きます。

この詞をベースに、古関裕而氏は誰もいない状態の甲子園球場のマウンドにたたずみ、
曲を完成させただと言われています。

次第に、「いつかは本当のことを・・・」と20年間悩み続け、
1968(昭和43)年夏第50回選手権大会の際、いきさつをあらいざらい告白。

以降、作詞者は「加賀大介」と改められます。
歌詞に込めた球児・加賀大介の想い!

加賀大介氏も、もともとは球児でした。
けれども、17歳の時野球のプレー中に負ったすり傷が元凶となり、右足を化膿し、
やむを得ず膝から下を切断し、野球を断ち切った過去がございます。

そういうわけで、白球を追いかけたご自身の少年時代の想い出、
断念せざるを得なかった甲子園への憧れ、こういった想いを込め、
「栄冠は君に輝く」大会歌を書き上げました。

加賀大介氏の出身地、石川県根上町(現・能美市)の能美市根上野球場には、
歌碑が建てられています。

この歌碑がある根上町で生まれ大きくなった後輩に、
「5打席連続敬遠」といった、甲子園高校野球伝説を生む星稜の松井秀喜選手が
いたのは巡り合わせか? 栄冠の輝きは、次世代へと受け継がれている。

湘南ボーイの奇跡深紅の大優勝旗箱根の山を越えて

無欲の勝利という言葉があげられます。この言葉の力を体現したのが、
1949(昭和23)年夏第31回選手権大会で初出場初優勝と言った快挙を遂げた
神奈川県代表・湘南高校。

大会前に掲げていた目標は、「1つぐらい勝とうではないか」。

この年、1949(昭和23)年、創部たかだか4年目といった無名の湘南ボーイ達は、
1つどころではなく全国の舞台で4連勝し、頂点を手に入れる。

快進撃を支えた「花の6・7番」!

坊主頭が当たり前だった高校野球の世界で、驚くほど全員長髪と言った湘南ナイン。

率いていたということは、慶応義塾大学野球部出身の佐々木久男氏。

そして、1年生ではあるけどレフトのレギュラーだったというのが、息子の信也。
父子鷹のチームでもあったのです。

2回戦からスタートした湘南は、初戦で徳島の城東(旧制・徳島商)と対戦する。

2年前の選抜大会で優勝経験のあるこの名門校相手に、
全員が打ち、9対3で大きく勝ち越す。

「1つぐらい勝とう」の目標をクリアし、その後はもう無欲の進撃。
準々決勝を7番佐々木信也のサヨナラヒットで勝ち上がると、
準決勝では”怪童”と言われた中西太擁する高松一(香川)と対戦する。

2対2で迎えた延長10回裏、6番宝性一成がサヨナラヒットを放ち、またも勝利。
この大会では、6番宝性、7番佐々木の2人が大活躍「花の6・7番」と呼ばれた。

箱根の山を越した深紅の大優勝旗!

そして迎えた岐阜(岐阜)との決勝戦。
3回まで0対3とリードを許すが、
4回に佐々木の二塁打で1点を返すと湘南ペースに。

6回には「花の6・7番」でチャンスを作って、あれよあれよという間に同点に、
これ以外には8回、またも宝性、佐々木の連続ヒットから2点を追加します。

これこそが決勝点になって、
5対3で湘南高校が「無欲の優勝」を手に入れたのであります。

関東勢の優勝は、1916(大正5)年夏第2回選手権大会優勝校、
東京代表・慶應普通部以来、実に33年ぶりです。

この大会期間中、競泳自由形の古橋広之進が、
アメリカ・ロサンゼルスで世界新記録を樹立。

「フジヤマのトビウオ」として一世を風靡しますが、
湘南高校の優勝もまた、「深紅の大優勝旗が箱根の山を越えた」と
大きな話題となっていました。

佐々木信也氏はその後、慶応大からプロ野球界に進んで、
引退後は、「プロ野球ニュース」(フジテレビ)初代キャスターとして
野球人気の発展へと貢献しました。

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