1931(昭和6)年夏第17回甲子園高校野球選手権大会外地台湾から挑戦

戦前の選手権大会を記憶をたどる上で外せない
存在に「外地」台湾からの挑戦があるのです。

外地とは、戦前に甲子園球場出場が許可されていた
満州、朝鮮、台湾です。

満州と朝鮮は、1921(大正10)年夏第7回選手権大会から、
台湾は、1923(大正12)年夏第9回選手権大会から
参加を認可され、年々代表校を内地へ派遣。

戦局深刻化で選手権大会が中止となる1941(昭和16)年まで、
外地からの挑戦は尽きることがありません。

外地からの出場校で強烈である印象を残した
1931(昭和6)年夏第17回選手権大会で、
嘉義農林学校(台湾)による準優勝です。

さらに、決勝で負けた相手がこの選手権大会以降、
夏3連覇を達成した、最高潮の中京商(現・中京大中京/愛知)。

どんなに悔しい敗戦だったかの裏付け。

そういった嘉義農林学校を強豪校へと導くのは、
松山商(愛媛)出身の近藤兵太郎氏です。

松山商初代監督が強豪チームを!

近藤兵太郎氏は、1918(大正7)年に、
松山商の初代野球部監督として、翌年19191(大正8)年には
同松山商を初の全国大会出場に導く名将です。

そういった近藤兵太朗氏が台湾に赴任し、
嘉義農林学校の監督に就任します。

松山商直伝のスパルタ式特訓で選手を鍛え上げます。

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しかも、蕃人(台湾原住民)・漢人・日本人の3民族の
融和点を掘り当てて、強豪チームへと育て上げて、
台湾代表の座を獲得します。

こうやって甲子園球場初出場をやり遂げた嘉義農林学校は、
台湾人が生み出す健脚振りと、巨漢揃いの選手たちでの
凄まじい打撃で甲子園球場の観衆を魅了していきます。

初戦の神奈川商工(神奈川)では5盗塁。

準々決勝の札幌商戦では、20安打8盗塁と甲子園球場で
暴れまくり19対7と大勝します。

準決勝の小倉工(福岡)戦も10対2と打倒して、決勝へと進出する。

ところが、中京商のエース・吉田正男投手は、克服できないで
0対4で敗退すことになる。

頂点へは残念ながら届くことがありません。

3日続きで40イニングの死闘戦!

嘉義農林学校は甲子園球場に春夏トータルで計5度出場。

台湾大会でもさまざまな名勝負を演じます。

特に伝説となって伝承されてるのが、
1941(昭和16)年夏(第27回選手権大会は中止)台北工との死闘戦。

両軍エースが好投し8回までゼロ行進。

ではありますが、コチラで大雨が球場を襲い、引分け。

次の日の再試合も投手戦になって、今度は7回に雨が降りまたも0対0の引分け。

次の日の再々試合には、1対1で延長戦に入ると、それから三度のゼロ行進。

何とか決着が付いたのは、なんとまあ延長25回裏。

嘉義農林学校のサヨナラ勝ち。

3日間に及んで行われた熱戦の合計試合時間は、
5時間45分、総イニング数は40回にも達した記録的な大試合。

1932(昭和7)年夏第18回選手権大会、1933(昭和8)年夏第19回選手権大会2人の天才投手楠本保と吉田正男

1930年代前半、2人の天才投手が甲子園球場を賑わせつづけます。

1人は、「世紀の剛球投手」と称賛された明石中(兵庫)の楠本保投手です。

もう1人が、夏の甲子園選手権大会3連覇の偉業の願いが適った
愛知県代表・中京商(現・中京大中京)のエース吉田正男投手。

「甲子園球場最多勝投手」にでも評価を得ている人物。

一緒に1914(大正3)に生をいただいた2人は、
それぞれの甲子園球場に6度出場します。

後の時代に言い伝えられるいくつもの大記録を打ち立てます。

脅威の奪三振ショー・楠本保投手!

楠本保が最大の評価を得た試合とは、
1932(昭和7)年春第9回センバツ大会です。

初戦で3安打完封と大会史上初となる全員奪三振を記録すると、
準々決勝でも全員奪三振と1安打完封勝ち取ります。

ほとんどパーフェクトの投球を見せています。

決勝には以後にタイガースの主砲となってプロ野球界で大活躍した
景浦将が在籍する松山商(愛媛)と対戦します。

0対1で敗れて準優勝に終るのですが、5試合39イニング49奪三振を記録。

準優勝であるのに、大会最優秀選手に授与の「委員賞」を受賞します。

楠本保は、同年1932(昭和7)年夏第18回選手権大会で、ノーヒットノーランも達成します。

またも松山商(愛媛)に敗北してベスト4に終りますが、4試合に登板して64奪三振。

1試合平均16奪三振という脅威の奪三振ショーを甲子園球場で見せます。

優勝の2文字に手は届くことがありませんが、甲子園球場通算15勝5敗を記録します。

明石中卒業した後は、慶応大学に進学して、東京六大学野球で
活躍を披露しますが、1931(昭和18)年、戦死されるのです。

甲子園球場最多勝投手:吉田正男!

6大会で23勝3敗を挙げ、延々に「甲子園球場史上最多勝投手」の座に君臨する。

中京商の吉田正男投手。

学制制度の違いで6回出場叶ったというのも大きいとは言え、
春は準優勝1回、夏は優勝3回とやっぱり強い。

吉田正男投手以外の甲子園球場20勝投手は、1980年代に甲子園球場
5大会出場、優勝2回を達成するPL学園(大阪)の桑田真澄投手のみ。

また、1933(昭和8)年夏第19回選手権大会で、ノーヒットノーランも達成します。

通算23勝のみならず、春9勝3敗、夏14勝0敗は、どれも「大会最多勝」
にふさわしく吉田正男投手の名前を刻んでいるわけです。

これに勝る大投手なのに、学生野球を終えた後、プロ野球界でなくて社会人野球に行きます。

その時代、プロ野球の地位がまったく低かったことも一番の理由と
考えますが、今になってみるとはなはだ惜しい話です!

甲子園高校野球史上唯一の選手権大会夏3連覇延長25回中京商栄光の時代

1931(昭和6)年夏第17回、1932(昭和7)年夏第18回、1933(昭和8)年夏第19回。

長い甲子園高校野球の歴史でも、わずか1校しか叶えられていない
「夏選手権大会3連覇」といった不滅の業績。

それら史上唯一の学校、愛知の名門・中京商(現・中京大中京)。

1931(昭和6)年、1932(昭和7)年、1933(昭和8)年、夏の甲子園球場14連勝。

この間、春のセンバツ大会でも準優勝1回、ベスト4が2回。

3年間6大会で23勝3敗といった驚くほどの勝率を持っている。

延長25回の死闘の末ものにした栄光!

「夏3連覇」の火付け役というと、この3年間エースとなって君臨する吉田正男。

23勝3敗は、そのこと自体が吉田正男投手の甲子園球場通算成績だったりします。

ひときわ、名勝負は大会2連覇がかかった1932(昭和7)年夏第18回選手権大会。

松山商(愛媛)との決勝戦。

同年1932(昭和7)年センバツ大会では、準決勝で負けてしまった因縁の相手に、
延長11回サヨナラ勝ちとしての劇的勝利。

松山商のエースで主砲・景浦将とのライバル対決は甲子園球場を沸かせました。

そうしてもう1つが、1993(昭和8)年夏第19回選手権大会準優勝。

明石中(兵庫)との延長25回の死闘戦です。

当時の甲子園高校野球は引き分け再試合のルールを欠くところから、
決着が付くまで試合は続けます。

これまで最長延長記録の19階を超え、20回の次の段階へ。

その当時の甲子園球場スコアボードは16回だけしかなく、
17回以降は、球場職員が「0」の表示を釘で打ちつけ続けながらセットしています。

そのうえ、吉田正男投手はずっとマウンドを守り抜きます。

吉田正男投手の力投に、中京商打線がようやくのこと応えたのは、延長25回裏。

無死満塁と絶好のチャンスをつかみます。

ボテボテのセカンドゴロの間にランナーが生還。

1対0でのサヨナラ勝ちをつかみます。試合開始時から4時間55分。

吉田正男投手は1人で336球を投げ、被安打8、19奪三振の完封勝利。

鉄腕・吉田正男投手は次の日の決勝でも完投勝利して、

中京商(愛知)夏の3連覇を達成するものです。

優勝回数・通算勝利どれも歴代1位!

中京商は、夏3連覇からずっとも現在に及ぶまで、中京→中京大中京と校名を
変えつつ、ずっと強豪校の地位を保ち続けます。

1937(昭和12)年夏第23回選手権大会、1938(昭和13)年春第15回センバツ大会。
史上2校目の「夏春連覇」。

1966(昭和41)年春第38回センバツ大会、夏第48回選手権大会。
しかも、史上2校目である「春夏連覇」を達成します。

甲子園高校野球での通算優勝回数は、歴代1位の11回(春4回、夏7回)。

甲子園高校野球通算133勝(春55勝、夏78勝)も断トツの1位。

甲子園高校野球の絶対王者だとしても言い過ぎではない、卒業生には、
侍ジャパンの稲葉篤紀監督を世に送るなど、野球界のリーダーも
中京商から数えきれないほど巣立っているのです。

甲子園高校野球史上最強の投手は誰だ?

1939(昭和14)年夏第25回選手権大会。

嶋清一の大偉業。準決勝と決勝2連続のノーヒッター。

史上最多23勝を挙げて「夏3連覇」を成し遂げた吉田正男投手。

「昭和の怪物」江川卓、「平成の怪物」松坂大輔と候補者は大勢出る。

けれども、他の誰も成し得ていない偉大な記録とされる意味では、
海草中(現・向陽/和歌山)の左腕・嶋清一投手が甲子園高校野球
史上最強の投手で決まりそうです。

1932(昭和14)年夏第25回選手権大会にて、準決勝と決勝での
2試合連続ノーヒットノーランという前人未到、史上唯一の
偉業を達成するわけです。

その投げっぷりは「天魔鬼神の快投」と呼ばれていた。

ノーヒットノーランを「された」過去とは!

偉業達成より前の嶋清一投手には、特定の天敵がいたんです。

中京商(現・中京大中京/愛知)の鉄腕・野口二郎投手。

1937(昭和12)年夏第23回選手権大会で、準決勝戦で対決し、
1対3で惜敗、雪辱に情熱を燃やした翌年1938(昭和13)年春第15回センバツ大会の
準々決勝で再戦したなら、今回はホントにノーヒットノーランによるボロ負け。

夏春連覇を達成する野口二郎投手の引き立て役と化してしまう。

嶋清一と海草中はそれ以後も2季連続で甲子園高校野球に出場するわけですが、
いずれも1回戦敗退します。

成果がともなわない日々が続く結果に。

史上初の2試合連続ノーヒッター!

最終学年になる1939(昭和14)年夏エースで4番、さらには主将として挑戦した
ラストの大舞台で、嶋清一投手は、今までのうっ憤を晴らすといった
好投を演じるのであります。

初戦の嘉義中(台湾)戦が15奪三振と3安打完封勝利。

2回戦の京都商(京都)戦は2安打完封。

準々決勝の米子中(現・米子東/鳥取)戦が3安打完封勝利。

手堅く準決勝へと好調、この地から連戦になって苦しいことが当然の準決勝、
島田商(静岡)戦。

嶋清一投手は疲れが出るのとは逆に17奪三振でノーヒットノーランを達成いたします。

次の決勝の下関商(山口)戦でもノーヒッターを演じ、
史上初の2試合連続ノーヒットノーランといった快挙で甲子園高校野球全国制覇。

夏第25回選手権大会で、それ以外に全5試合完封と45イニング連続無失点での優勝、
といった偉業も達成しているのです。

その栄光から59年その後の1998(平成10)年夏第80回選手権大会、
横浜(神奈川)の松坂大輔が決勝戦ノーヒットノーランを達成した瞬間に、
またしても注目される、嶋清一投手の名前と、松坂大輔を上まわる大記録でした。

嶋清一氏は、1945(昭和20)年、24歳の若い歳で戦死します。

母校の現・向陽高校野球部では、入部時に嶋清一選手の評伝を1冊毎贈呈し、
全野球部員が先輩の偉業において学んでいらっしゃいます。

伝説はこのようにして語り継がれ、引き継がれていくでしょう。

中京商に栄光再び「鉄腕」野口二郎1937(昭和12)年春第14回センバツ大会、夏第23回選手権大会

1938(昭和13)年春第15回センバツ大会。

史上初「夏3連覇」を成し遂げた、
中京商(現・中京大中京/愛知)が一時代を築き上げたのは、
1931(昭和6)~1933(昭和8)年。

そのあと、栄光の時代が訪ねるのは、4年後1937(昭和12)年。

日中戦争が開戦。戦時色が鮮明になってきた時代。

先導したのは、後に「鉄腕」と称された大投手・野口二郎投手。

4試合連続完封で獲得する「夏春連覇」!

中京商夏3連覇最後の年、エース吉田正男とバッテリーを組んで、後々に
プロ野球界にとどまる野口明捕手。

その弟として期待されて校門をくぐる野口次郎投手は、
1937(昭和12)年春第14回センバツ大会で、エースとして
甲子園高校野球のマウンドに上がって、決勝に進出いたします。

惜しく準優勝に終るけれど、この屈辱がエースをもっと頑強にへといざなう。

同じ1937(昭和12)年夏第23回選手権大会に出場する中京商と野口二郎投手は
準決勝で海草中(現・向陽/和歌山)の剛球投手・嶋清一との投手戦を制し、
決勝に進出します。

決勝戦では、プロ野球巨人軍に入団する川上哲治氏と吉原正喜の黄金バッテリーで
勝ち上がってきた、熊本工(熊本)を3対1で下して、中京商に4年ぶりの
全国制覇をもたらします。

翌1938(昭和13)年春第15回センバツ大会では、準々決勝で再び、嶋製一擁する
海草中と対戦します。

野口二郎投手は、この試合で史上4人目となるノーヒットノーランに輝く。

その勢いのまんま、準決勝・決勝でも完封勝利を収めます。

4試合連続完封という完璧な投球内容で「夏春連覇」を成し遂げる。

甲子園高校野球通算12勝1敗、7完封というような成績を引っさげ
大学野球、それからプロ野球界へと行きます。

甲子園優勝投手からプロ200勝の投手へ

野口二郎投手の鉄腕振りを知るためには、プロでの活躍につきましても
触れることが欠かせません。

1939(昭和14)年に、東京セネタースに入団後、戦前のたった5年で
291試合に登板し、156勝。

戦後1946(昭和21)年だと阪急でプレーし、7年間で226試合に登板し、
81勝。通算237勝を挙げています。

このことは、全盛時期を戦争で不意にしているというのにです。

高校野球100年の歴史で「夏の甲子園優勝投手」からプロで200勝挙げたのは、
史上唯一野口二郎だけにすぎません。

センバツ優勝投手を合わせても。

1965(昭和40)年春第37回センバツ大会に優勝した、
岡山東高(岡山)の平松政次投手の2人だけです。

これが、「甲子園優勝投手は大成しない」などの噂が生じる
要因としても知られているけれども。

そういうわけで、野口二郎投手の偉業は語り継がないとならないでしょうね!

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