甲子園球場 巨人・沢村、阪神・藤村黎明期スター

巨人軍エースの元祖、沢村栄治の甲子園!

巨人軍先駆けのスター、日本プロ野球界初のノーヒッターで、
初の永久欠番選手と言う立場でもある沢村栄治投手が思い浮かびます。

天才右腕の甲子園球場初お目見えは、1993(昭和8)年春第10回選抜大会。

創部から5年も経っていない状態の無名の京都西(現・京都学園/京都)を
甲子園に導き、ベスト8進出の立役者。

準々決勝で明石中(兵庫)の豪腕・楠本保投手と投げ合い
1対2で惜敗することになりますが、このときの活躍ぶりことから、
沢村栄治投手と楠本保投手、そして同時代のスター、
中京商(現・中京大中京/愛知)の吉田正男投手の
3人は「大会三大投手」と巷で話題の元として。

今であるなら、「ビックスリー」の走りともいえるのではないでしょうか。

沢村栄治投手の甲子園通算成績は、3大会出場で3勝3敗。

戦績のみを調べれば物足りないわけですが、京都府大会で
脅威の1試合23奪三振を記録する。

1934(昭和9)年夏第20回選手権大会敗退後に、京都商を中途で退学すると、
最年少17歳で全日本入って。

来日したルー・ゲーリッグやベーブ・ルースと言われるスター揃いの
全米代表選手に孤軍奮闘したことから、「スクールボーイ」の愛称と共に
その活躍振りがアメリカにも打電されることになります。

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初代ミスター・タイガース、藤村富美男の甲子園!

阪神最初のスターと言いますと、「物干し竿」と呼ばれた長いバットで
日本野球界の本塁打王となって阪神初の永久欠番選手。

「初代ミスター・タイガース」こと藤村富美男。

広島の呉港中(入学時は大正中)時代は、エースとなって甲子園に
春夏合わせて6度出場すことになる。

初挑戦を向かえた1932(昭和7)年夏第18回選抜大会では、楠本保投手と、
1933(昭和8)年春第10回選抜大会では、沢村栄治投手と、
1933(昭和9)年夏第19回選手権大会では、吉田正男投手と
それぞれ投げ合いを演じ、どれにしても惜敗してしまうが、
ビッグスリーとの名勝負で人気を高まった藤村富美男投手は、
「甲子園の申し子」と言われていてます。

迎えた1934(昭和10)年夏第20回選手権大会、いよいよ決勝進出する。

川上哲治のいた熊本工(熊本)相手に2安打しか許しません。
2対0で完封勝ち。

悲願の全国制覇を実現します。
後に巨人で「打撃の神様」と言われた川上哲治も、藤村富美男相手に3三振。

バットにかすることだってが不可能だったと言うのです。

甲子園球場同名校・兄弟対決あれやこれや混乱が!

アナウンサー泣かせの対決と呼ばれる試合が甲子園球場ではごく稀に実現します。

これについては「同名校対決」「兄弟校対決」です。

全国約4,000ある高校の中で、たったの49代表しか出ることができない桧舞台の甲子園球場。

おまけに組み合わせは抽選で決定するというのに、運命の糸を手繰り寄せるかのように
立ち向かってしまった奇跡の対戦を記憶をたどる。

長崎県勢 vs 三重県勢が海星同士の2度だけの奇跡!

同名校対決として知られているのが、長崎県と三重県による「海星対決」で、
2度も実現しているわけです。

1度目は、1972(昭和47)年夏第54回選手権大会の1回戦。
このときは、2対0で長崎県代表の海星が勝利を手にする。

2度目の対戦は、1989(平成元)年夏第71回選手権大会の初戦(2回戦)。

17年振りに現実となった海星対決は、10対2で三重県勢がリベンジ勝利。

海星対戦成績を1勝1敗とする。
この海星対決がはなはだ不思議なというのは、2校が同じ大会に出場できたのは
3度だけにもかかわらず、その中2度も直接対決が実現していることなのです。

しかも、甲子園球場で長崎県勢と三重県勢の対決は、
春夏通じて2回のみで、この両県は「海星対決」しかしておりません。

言ってみれば運命に導かれし海星同名校対決です。
ついでに、スコアボード表記は、「長・海星」「三・海星」となったのです。

見せかけも同じ「東海大」「智辯」対決!

同名校対決より分かりにくいというのが、同じ私立の系列校による「兄弟対決」です。

なぜかというと、兄弟同士はユニフォームも似るため、いずれの方が攻撃中なのだろうか
おかしくなってしまうというわけで。

そういった分かりにくい対決が実現したのは、1983(昭和58)年夏第65回選手権大会。

東海大一(静岡)と東海大二(熊本)の一戦。
地の色こそ若干は違うものの、伝統のピンストライプと胸に刻まれた
「Tokai」の筆記体は同じようなもの。

しかも監督も、東海大一校が斉藤、東海大二校が斎藤といったオマケつき。

試合は13対1で、静岡県の東海大一高に軍配が。
この対決の理由からはないと思われるが、現在東海大静岡翔洋(旧・東海第一)と
両者の校名は変更されたのです。

2002(平成14)年夏第84回選手権大会では、
智弁和歌山(和歌山)vs 智弁学園(奈良)も実現。

こちらは、ユニフォームのデザインも色調も一緒で、違う部分は左腕の
校章の一部分とそれぞれの県名、また胸に描かれる「智辯」の文字のデカさくらい。

これまでに近畿大会での対戦は見られたのですが、甲子園球場での直接対決は
この大会が初の経験です。

試合は、一塁側と三塁側、両スタンドにご承知「C」の人文字が浮かぶ中、
弟分の智弁和歌山(和歌山)の7対3で勝利いたします。

甲子園球場印象に残る選手!青森県代表・三沢校、太田幸司投手

伝説の決勝戦で名を挙げた三沢校(青森)の悲劇のヒーロー、太田幸司投手。

4日連続45イニングを投げ切った鉄腕振りで高校野球ファンの評価を高めたが、
別な要素、美少年振りでも人気を博し伝説の存在ということです。

元祖「アイドル球児」の誕生です。「コーちゃん」見たさの狂乱!

1969(昭和44)年夏第51回選手権大会。
3季連続で甲子園出場を得た太田幸司投手には、大会前ずっと前から女性ファンが大勢いた。

ロシア人の血を受け継がれたエキゾチックな顔立ちは、ニキビ面に汗まみれという
これまでの高校球児像とは、一線を画し太田クン見たさの女性ファン群衆に、
行く先々で包囲されるほどに。

宿舎に無断に侵入する者まで出現したため、三沢ナインは外出禁止になって、
大会期間中は宿舎と甲子園球場の往復だけ。

ほどなく、この往復の移動バスに乗車することさえ不可能になって、
決勝戦では、太田幸司投手だけ別の車で甲子園球場に入るといった、
正真正銘スターの待遇だったのです。

そういったアイドル球児・太田幸司投手が演ずる、
「決勝引き分け再試合」というような力投劇場!

健気な姿に女性ファンは日を追うごとに心打たれ、決勝戦を境にして、
「コーちゃん旋風」はこれまで以上に激しさを増す。

三沢に帰省すると、連日ダンボールに何箱というようなレベルでファンレターの嵐。

住所もなくても「青森県・太田幸司 様」だけのことで、自宅に郵便物が
届くことになっていた。

これまで甲子園高校野球の歴史では、球児がスター並みに女性ファンから
アイドル視されたことなどないですし。

『週刊ベースボール』で高校生として初めて表紙に起用されるなど、
その人気は言ってみれば歴史的なある出来事。

このようにして「元祖・甲子園のアイドル」が誕生することになりました。

「甲子園ギャル」とアイドル球児の系譜!

太田幸司投手の登場で潮目が移り変わり、それ以後の甲子園球場には
入れ替わり立ち代わりアイドル球児が出現します。

翌1970(昭和45)年春第42回選抜大会で、耳目を集めたのが、
優勝した箕島(和歌山)のエースで4番「2代目・コーちゃん」こと、
島本講平選手です。

このとき、関西の地は大阪万博でふるわいを見せていたわけですが、
甲子園高校野球では、島本講平選手見たさに、女性ファンが一斉に訪れる。

彼女達は「甲子園ギャル」と呼ばれるそれ以後も、1974(昭和49)年
夏第56回選手権大会で活躍した、定岡正二投手(鹿児島)、
1974(昭和49)年から3年間甲子園球場の主役だった原辰徳(東海大相模)、
1977(昭和52)年夏第59回選手権大会、「バンビ」と呼ばれた1年生エース
坂本佳一(東邦)と、途絶えることなく続いて行くアイドル球児の系譜。

その熱狂は1980(昭和55)年夏第62回選手権大会の荒木大輔(早稲田実)の
出現で、太田幸司投手以来の熱狂を迎えます。

甲子園史上初決勝引き分け再試合 松山商 vs 三沢校

伝説の決勝戦、高校野球の歴史で長く語継がれるのが、
1969(昭和44)年夏第51回選手権大会の決勝戦です。

18回の出場で4度目の栄冠を目指す愛媛の名門・松山商。

2年連続2度目の出場で初の決勝進出を果たした青森県の新鋭・三沢校。

東北県勢の決勝進出は、第1回大会の旧制・秋田中(秋田)以来、
54年ぶり2度目のこと。

8月18日午後1時、甲子園球場観衆55,000人と超満員。
これからプレーボールを知らせるサイレンが誇らしく響く。

攻める三沢校、守る松山商!

試合は、三沢校の鉄腕エース・太田幸司投手と、
松山商の技巧派エース・井上明投手の投手戦となり、0対0のまま延長戦に。

決勝戦の延長は史上6度目、10年振り。
延長15回裏、三沢校は1死満塁の絶好のチャンス。

守る松山商の井上明投手は、スクイズを警戒して3球連続でボールとなり
押し出し寸前。

しかし、ここからフルカウントまで堪え忍んで、迎える6球目。

強い打球が井上明投手の横へ、打球は井上明投手のグラブをはじき、
サヨナラヒットかと感じられたが、三塁走者がライナー捕球かと見誤り
スタートが遅れてしまう。

この間にショートが抜群のカバーで本塁フォースアウト。

三沢校は千載一隅の大チャンスを見逃す。続く延長16回裏。
三沢校はまたまた1死満塁のチャンスを作りますが、今度は
スクイズ失敗でダブルプレー。

結局、両チーム無得点のまま延長18回引き分け再試合となる。

試合時間は4時間16分。投球数は井上明232球、太田幸司262球。

「半分にちぢれぬものか、優勝旗」!

翌日の再試合。前日、ビッグチャンスの無かった松山商が1回表、
疲れの色が明らかな、三沢校エース・太田幸司投手から
2ランホームランを放ち、いきなり2点を先制する。

その裏、三沢校打線も球威の無い、井上明投手を攻め立て1点を返すと、
ここで松山商は投手を交代する。

その後は、両投手踏ん張って投手戦となるが、6回表、太田幸司投手の
暴投と三沢校守備陣のエラーも重なり松山商はさらに2点を追加する。

最後は4対2で松山商が通算4度目となる全国制覇を達成する。

敗れた三沢校と太田幸司投手だったのですが、準々決勝からの4日間、45イニングを連投。

大会6試合で64イニングを1人で投げ切った精神力は大きく称賛されます。

特に太田幸司投手人気はすざましく、普段は野球を見ない層にも広がりを見せ、
「日本中昼寝もさせぬ十八回」「半分にちぎれぬものか優勝旗」といった
時事川柳が新聞の投稿欄を賑わせた、伝説の甲子園史上初、決勝引き分け再試合でした。

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