甲子園出場回数歴代1位 京都代表・龍谷大平安高等学校

京都が誇る高校野球界をシンボライズする名門校というと、
龍谷大平安高等学校。

創部は明治時代の1908年。

100年後の2008年まで「平安」と名乗っていました
高等学校の甲子園出場回数は、
春選抜大会40回と夏選手権大会33回。

甲子園春夏出場合計73回は、全国歴代1位です。

2018年春時点での甲子園球場通算勝利数は、
99勝(春選抜大会40勝、夏選手権大会59勝)で、
全国1位の中京大中京133勝に次ぐ全国2位。

史上2校目の100勝到達まであと1勝に近づいている。

衣笠祥雄ら球界のスターもたくさん輩出し、
優勝回数は夏選手権大会3回、春選抜大会1回。

2014年の春選抜大会優勝が、記憶に目新しい。
時代を越える強豪です。

西村進一 戦争で片腕を失い左手1本のノック

名門校がはじめて全国の頂点を獲ったのが、
まだ旧制の平安中であった1938年夏第24回選手権大会。

中心選手の1人が「名手」と呼ばれていた木村進一。

あとから西村と姓を変え、「隻腕の名将」と呼ばれた人物。

平安中を卒業後、立命館大学を中退してプロの名古屋軍に入団します。

しかしながら、太平洋戦争で召集。

南太平洋のニューブルテン島で右手首を失い、プレーヤーの立場での道が
閉ざされてしまう。

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そうだとしても、野球への情熱を失わなかった男は、戦後すぐの1948年。
監督となって母校・平安中に戻って来るとのことです。

右手にはめた義手にボールを乗せ、左手1本でノックする、
熱血指導が代名詞。

「片腕でしかない俺がここまではできるんだ。
 おまえ達になら間違いなくきるぞ」と、激を飛ば続けていく。

そういった激しい練習で成長を見せた平安中ナインは、1949年春の選抜大会で
8年ぶりに甲子園球場に帰還。

1951年夏第33回選手権大会では、優勝候補と見なされる。

西村進一は、選手でも監督でも全国の頂点に。

全国制覇を狙った最大の壁は、”怪童”と呼ばれた、中西太選手の在籍する
高松一(香川)との準決勝。

9回表まで4点リードをしながら、その裏中西太選手の二塁打をきっかけに
猛反撃に会い、1点差ということになります。

なおも2死満塁とピンチが続発しますが、最後は平安のエースが鼻血を出しつつも
頑張り通して後続を討ち取って、ゲームセット。

実質上の決勝戦に勝った平安が13年ぶり2度目の優勝を成し遂げる。

京都の街は祝福の渦に包まれ、敗戦後の不況で落ち込みがちであった
府民を奮い立たせました。

こうやって西村進一(木村)は、選手でも監督でも甲子園高校野球の
頂点を掴み、高校野球界にたしかな足跡を残しました。

1998年夏第80回選手権大会、山口県代表・宇部商サヨナラボーク

1998(平成10)年夏第80回選手権大会。

“史上ひときわ切ない幕切れ”と、言い伝えられる甲子園高校野球があるのです。

1998(平成10)年8月16日、第80回選手権大会2回戦、宇部商(山口)と
豊田大谷(東愛知)の一戦です。

プレーボールは、猛暑の甲子園球場がどんどん暑さを増す午後0時5分。

このゲーム終了後、春夏連覇を狙う横浜・松坂大輔投手と、1回戦で
ノーヒットノーランを成し遂げた、鹿児島実業・杉内俊哉という好投手同士の
試合が控えていたため、甲子園球場観客数は発表で4万9千人。

間違いなく、5万人以上の大観客が詰めかけ、最後に起きる悲劇の目撃する
ようになります。

宇部商・藤田投手に気迫の限界…

試合は、宇部商2年生エース・藤田修平、豊田大谷の先発・上田晃広が
両者とも好投します。

9回裏、2対1と1点をリードして最後の守りにつく宇部商だけれど、
あとアウト1つまで追い込みながら同点に追いつかれ、2対2で延長戦に
突入していきます。

その後はスコアボードに0が続き、迎えた延長15回裏、守る宇部商・藤田修平投手の
球数はとうとう200球超えます。

身長172センチ、体重60キロと細身の藤田修平投手にすれば、もはや限界越え。

やっとのことで気迫のみでマウンドに立ち続けている局面での中、
その瞬間はやって来た。

投げられなかった211球目の無情

15回裏、ヒットとエラー、四球で無死満塁といった大ピンチになった
守る宇部商ナイン。

マウンドに立ち続けるエース・藤田修平投手は、何度もなんども拭っても
止められないといった汗を額から流しながらも、この日の211球目を投げようと
投手姿勢に入る。

ところが、次の瞬間、藤田修平投手は投球動作を途中で止め、
プレートに足をかけたまま、セットに入ろうとした手を下にストンと
落としてしまうのです。

主審は瞬時に、「ボーク」を宣言。三塁ランナーがホームインし、
豊田大谷のサヨナラ勝ちというアンビリーバブルな幕切れ。

甲子園球場に勢揃いした5万人の観客も騒然。

当の藤田修平投手も状況が理解できてないのか、マウンドでただ放心状態で
立ち尽くすぐらいしかありません。

このとき、甲子園球場の気温38度。
グラウンド内のマウンド上はそれをオーバーする暑さです。

あり得ないくらい暑すぎた試合の結末は、悲しすぎるものになった。

ですが、ボークを宣告した主審は宇部商の藤田修平を励ます目的で、
普通だったら勝った学校の主将に手渡すウィニングボールを、
「また、戻って来なさい」といった気持ちを込め、藤田修平に思いやりを持って
手渡したと言われています。

このようにして、「サヨナラボーク」は甲子園高校野球史に残る
伝説になったというわけです。

夏甲子園選手権大会は、完全試合はゼロ

甲子園高校球児、その中においても投手たちの夢、完全試合。

この偉大な記録を甲子園球場の大舞台で達成した人物とは、
高校野球100年の歴史でたったと言うよりは2人だけ。

その完全試合、最初の達成者が、1978(昭和53)年春第50回選抜大会での
前橋(群馬)の松本稔投手。

伝説が生まれたのは、春夏通算2429試合目の大記録達成。

選抜大会4日目第3試合、前橋 vs 比叡山(滋賀)戦。

身長168センチ、体重63キロと小柄な松本稔投手だけれど、抜群の制球力で
比叡山打線を手玉に取る。

9回2死、27人目の打者が打席に入ると、やっぱりプレッシャーを感じたのだろう、
一瞬甲子園球場の空を見上げる松本稔投手。

けれども、その直後、最後の打者を初球でピッチャーゴロに仕留め、いとも簡単に
完全試合を達成するわけです。

試合時間はたった1時間35分。費やした球数というと78球。

内野ゴロ17、三振5、内野飛球2、外野飛球3。

松本稔投手のテンポ良い投球ももちろんのこと、内野陣の堅守もあり
成し遂げられた偉業は、春選抜大会1019試合目。

春夏2429試合目でどうにかこうにか完全試合は生まれた大記録です。

けれども、結果的にこの偉業が前橋ナインのリズムを狂わせます。

一躍今話題の存在になった松本稔投手と前橋ナインは、
次の試合では、0対14といった予測もできない大敗を喫します。

メディアからの取材攻撃と周りの過剰な期待とで通常のピッチングが
できなかったばかりか、前の試合で堅守を誇った守備陣にも
ミスが連続してのせいでです。

後年、「何日かで天国と地獄のどっちともを味わったということが
    忘れられない経験。地獄も見られて良かったです」と、
語る松本稔氏。

その苦い経験も役立てるべく、高校卒業後は、大学→大学院を経て、
地元の群馬・中央校で野球部の監督となります。

1987年には、夏選手権大会の甲子園に出場しています。

それ以降も2002年に、母校の前橋を導いて思い出の春選抜大会にも
出場を果たしているのです。

完全試合甲子園高校野球史上2人目は金沢・中野真博

甲子園高校野球大会もう1人の完全試合男は、194年春第66回選抜大会での、
金沢(石川)のエース・中野真博。

江の川(現・石見智翠館/島根)を相手に偉業を樹立します。

中野真博投手はストレートとスライダーを織り交ぜて、カーブも効率よく
使用しながら、江の川打線を翻弄します。

たった99球、試合時間は1時間28分での大記録達成。

この2人以来、そして夏甲子園選手権大会ではいまだ、
完全試合達成者は出ていないのです。

・衣笠祥雄
連続試合出場記録世界2位の故・衣笠祥雄氏もまた、
甲子園高校野球が生み出した偉大な名選手。
広島カープ入団度すぐに内野手となるが、出場回数1位、
京都の名門・平安時代は、捕手でした。

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