無名公立校の佐賀北決勝戦奇跡の満塁アーチ

専用グラウンドも持っていない知名度の低い公立校・佐賀北(佐賀)が
奇跡的な試合し続けたそれらの活躍の様子は「ミラクル佐賀北」、
であるとか佐賀の方言で「とっても(すごい)」に該当する
「がばい」を付けて、「がばい旋風」と言われる。

佐賀北強豪校相手に戦う度に強化される!

甲子園球場、夏第89回選手権大会、プレッシャーのかかる
大会初日の開幕戦に登場した、佐賀北は2対0と見事な完封勝利。

続く2回戦、宇治山田商(三重)戦は、延長15回でも
決着がつかず、4対4で引き分ける。

2日後に行なわれた史上5度目の再試合は、打線が爆発、9対1で勝利。

このころから、世間の佐賀北を見る目が変わっていくというわけです。

3回戦も勝利し、その次の準々決勝の相手は、名門・帝京(東東京)。

この大会でも優勝候補に挙げられていた最強相手に延長13回の終わりに
ドラスチックなサヨナラ勝ち。

その勢いのまんま、2日後の準決勝は目の覚めるような完封勝利。
名の知られていない公立校がいよいよ決勝に進出する。

大舞台で注目され続けたことによって、佐賀北ナインは戦う度にますます
上手に、レベルアップしていくというわけです。

甲子園球場の雰囲気がバックアップした奇跡!

決勝の相手も広島の名門・広陵。
大多数の予想とおり試合は広陵ペースで展開し、8回表を終って0対4。

広陵のエース・野村祐輔投手と受ける小林誠司捕手のバッテリー
相手に、ヒットは1本しか打つことができず、三振の数はもはや10個に達しているけれど、
8回裏、佐賀北にこの試合初めてという連続ヒットが生まれて、
1死一・二塁とチャンスを掴むと、甲子園球場の雰囲気が変わってしまう。

この大会で再三再四演じてきた「ミラクル佐賀北」を甲子園球場の観客が期待し始めたといえます。

甲子園球場全体が佐賀北を応援するといった空気感がプレッシャーに変身したのか?

広陵の野村祐輔投手はここから2者連続四球で押し出しの1点が佐賀北へ。

3点差になって、なおも満塁打席には3番の副島浩史選手。

その3球目、副島浩史選手がフルスイングした打球は高々と舞い上がり、
大声援を送っていたレフトスタンドへ。

甲子園球場決勝という大舞台で芽生えた、奇跡といった逆転満塁アーチ。

最終回、広陵打線を無失点に抑え、5対4で佐賀北の夏選手権大会の王者に。

公立校の優勝は実に11年ぶり。
佐賀北が引き起こした”がばい旋風”は、とんでもなく鮮烈だったのです。

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甲子園球場史上初の春夏連覇の作新学院

1962(昭和37)年、春第34回選抜大会、夏第44回選手権大会、
栃木県代表・作新学院優秀。

高度経済成長きらびやかな1960年代。
日本が目覚ましく変動していく中、甲子園球場では1つだけ変わることのないことがあるのです。

それは、どのような名門校でも「春夏」連覇はすることができないことです。

過去、大会連覇や「夏春」連覇を達成した学校は何校もあるのですが、
春夏連覇に限っては大きな壁となって残っています。

その「夏春連覇」の大きな壁を新たに打ち崩したというのが、
1962(昭和37)年の作新学院(栃木)。

けれども、偉業達成での道程は、とにかく険しい道程でありました。

作新学院エースで掴んだ春の栄光!

エース・八木沢壮六を擁し、1962(昭和37)年、春第34回選抜大会に
出場した作新学院。

準々決勝では、八幡商(滋賀)の駒井征男投手との投手戦になって、
0対0で、選抜大会史上初、それから唯一の延長18回引き分け再試合に。

次の日の再試合を接戦の末に、優勝した作新学院ですけれども、
準決勝の松山商(愛媛)戦も延長16回へ。

相手選手のエラーから決勝点をもぎ取って、4時間18分にわたった熱戦を制する。

日大三(東京)との決戦は、八木沢壮六投手が7安打を許しつつも要所を締めて完封する。

「傷だらけの栄光」と呼ばれた初優勝を受け取ります。

偉大なる二番手投手の甲子園球場夏物語!

史上初の春夏連覇を目指し、栃木大会を勝ち上がってきた作新学院。

しかしながら、大会直前に大黒柱の八木沢壮六投手が赤痢の疑いで入院します。

その他にも保菌者がいたとすれば出場辞退、という瀬戸際に立たされます。
検査結果がわかるまで、作新学院の試合は、2日間延期になるというような
特別処置の末、全員陰性の判定が下ってどうにかこうにか出場が認められました。

けれども、エース不在は変化がない作新学院(栃木)。
この危機的状況を救うというのが、二番手投手の加藤斌(たけし)。

初戦を延長戦の末にどうにかこうにか勝利をもぎ取ると、2回戦は7対0で完封勝利。

続く準々決勝の前に八木沢壮六投手が退院して、ベンチ入りも確認できますが、
どうしても投げられる状態では無いでしょう。

作新学院春夏連覇の夢は、加藤斌投手の右肩に託すしかないと思います。

そうだとしても、八木沢壮六投手が戻り明るくなった作新学院は、準々決勝も勝ち上がります。

作新学院と一緒に優勝候補と注目を集めた中京商(現中京大中京/愛知)との
準決勝を2対0の完封勝利すると、決勝でも加藤斌投手がまた完封します。

1対0で接戦を勝利し、史上初の春夏連覇を達成しました。

加藤斌投手は、卒業後にプロ野球界、中日に入団するわけですが、
2年目のオフに交通事故で死去されてしまうのです。

だったとしても、「偉大なる二番手投手」として、
その名前と功績は、甲子園史にずっとずっと残り続けるのです。

甲子園球場怪物・江川卓投手の球はバットに当たらない

1973(昭和48)年、春第45回選抜大会、夏第55回選手権大会。

栃木に凄すぎる「怪物」がいる。
1970年代前半、高校野球界はその噂で持ち切りだった。

「球がホップする」「史上最速」と称された快速球と、打者が尻持ちつくくらい曲がるカーブを操る。

作新学院(栃木)の江川卓投手。
超高校級の実力は当たり前として、耳のでっかい顔が漫画「怪物くん」の
主人公に似ているからと、「怪物江川」と呼ばれていて、高校球児には恐れられた。

江川卓投手春選抜大会最多の大会通算60奪三振!

栃木大会でのノーヒットノーラン達成回数9回。

完全試合2回。人並みの高校生ではかなうわけがない
ずば抜けた存在であった江川卓投手(作新学院)。

そうだとしても、甲子園球場への道は遠かったのです。

1年夏は、栃木大会準決勝で延長11回まで投げますが、救援投手が打たれて敗退します。

春選抜大会出場をかけた1年秋の関東大会は、完全試合ペースで投げていた
途中頭部に四球を受けて退場し、チームは逆転負け。

2年夏の栃木大会準決勝では、延長10回2死までノーヒットノーランだったが、
11回にサヨナラスクイズが決まり、甲子園球場には届くことがありません。

「栃木に江川あり」と言われつつも、勝ち運に恵まれてない江川卓投手。

そのうっぷんを晴らしたのが、2年秋からの新チームです。
練習試合、秋の県大会、関東大会を23戦全勝する。

113イニング無失点という驚異的な投球術で、1973(昭和48)年、
春第45回選抜大会への出場を決めます。

春第45回選抜大会初戦は、開会式興奮冷めやらぬ初日第1試合。

江川卓投手は甲子園球場の大観衆の前で、優勝候補の北陽(大阪)
相手に19奪三振の鮮烈デビューを飾り、噂たがわぬ実力を見せました。

第45回選抜大会では、2回戦が10奪三振、準々決勝では1安打1四球しか許さない20奪三振。

準決勝では試合巧者の広島商(広島)に負けてしまうけれど、この試合でも11奪三振。

大会通算60奪三振は、45年を経つ今となっても破られない選抜大会の最多奪三振記録。

怪物・江川卓投手最後の夏結果としてとは!

高校最後の1973(昭和48)年、夏第55回選手権大会にも出場を果たす江川卓投手。

ですが、春選抜大会以降、招待試合の目が回る忙しさ練習不足を引き起こし、
さしもの怪物も球が走ってないと言えます。

春選抜大会では、バットにかすることすらほとんどなかったのに、
夏選手権大会は1回戦から延長となって、15回の末、どうにかサヨナラ勝ちをする。

続く、2回戦の銚子商(千葉)戦も延長戦に。
最後は雨が降る12回裏、1死満塁のピンチになりフルカウントから押し出しの
四球を許して、怪物の最後の夏は幕を閉じます。

そこは、1人の抜きん出た投手というだけでは、甲子園球場を勝ち抜けない時代に
入っていることの証だとも考えられます。

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