2006(平成18)年夏第88回選手権大会準々決勝 智弁和歌山 vs 帝京高等学校 甲子園高校野球史上最高の激闘

甲子園高校野球名将対決にして注目を集めた
2006(平成18)年
夏愛第88回甲子園高校野球選手権大会準々決勝。

髙嶋 仁(たかしま ひとし)監督が率いる
智弁和歌山(和歌山)対、
前田三夫(まえだ みつお)監督が率いる
帝京高等学校(東東京)の一戦。

強打十八番同士ですので、
8回までに両校合わせて5本のホームランが
飛び交う展開に沸く甲子園球場。

試合は8対4と、智弁和歌山が4点先行して、
運命の最終回へ移ります。

9回、4点を追う側から4点先行へ

9回表、4点を追いかける帝京高等学校は、
この先頭の代打、沼田隼が凡打するも、
その後に2死一・二塁として、
4番中村晃の安打を手始めに5者連打で
一挙5点を取り、逆転に持ち込みます。

そして走者2人残して、
もう1度打席が回ってきた沼田隼が
レフトスタンドへ3ランホームランを打つ。

結局名将の代打策がすっぽり理想的な
形となって、この回一挙8得点。

4点を追う立場であった帝京高等学校が、
12対8とは逆に4点のリードを奪い攻撃を成功させる。

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智弁和歌山の高嶋仁監督は、
ここは2番手投手から3番手の
松本利樹投手に交代へ。

たった1球で続く打者を仕留めると、
やっと長い長い帝京高等学校の9回表の攻撃が終了した。

1球勝利投手と1球敗戦投手が!

センセーショナルな大逆転劇を演じた
帝京高等学校だが、
なんとこのような逆転劇がうまくいくために、
とある犠牲を払ってました。

投手の打順で代打・沼田隼を起用して、
9回裏を託せる投手が居ない状況です。

前田三夫監督は、予定外にセンターの選手を
マウンドに送るけど、制球が定まらずに四球を繰り返し、
迎えた智弁和歌山の4番打者に3ランホームランを見舞われ、
1点差に詰め寄られてしまう結果に。

ますます続くピンチで、
前田三夫監督が次いでマウンドへ送るのが、
1年生だけどショートのレギュラーであった杉谷拳士。

けれども、杉谷は初球ガツンと死球を出して、1球で降板。

それから後に、
智弁和歌山の代打策が文句なしにハマり
12対12の同点に追いつく。

ラストに1死満塁から押し出し死球を決めた
智弁和歌山がサヨナラ勝ち。

13対12といった激闘に幕引き。

これほどの混戦と打撃戦ですので、
この一試合でかなりの大会記録が誕生しました。

両校トータルで一試合7本塁打
(智弁和歌山5本、帝京2本)、智弁和歌山のチーム
一試合5本塁打は、甲子園高校野球選手権大会最多記録。

珍記録ですが、1球勝利投手と1球敗戦投手が
時を同じくして誕生しました。

勝利投手は、9回表2死から登板して
1球で仕留めた智弁和歌山の勝利投手松本利樹。

負け投手は9回裏に登板し、
死球でサヨナラランナーを出した
帝京高等学校の杉谷拳士選手です。

1993(平成5)年夏第75回選手権大会 1997(平成9)年夏第79回選手権大会 2000(平成12)年夏第82回選手権大会 甲子園最多勝監督 智弁和歌山・高嶋仁

1990年代後半以降の甲子園高校野球で、
ひときわゆるぎない成績を残した高校、
和歌山雄・智弁和歌山。

約40年間率いたのは、
歴代の高校野球監督で最も甲子園球場での
勝利を積みかさねた、名将・高嶋仁監督です。

高嶋仁王立ちスタイルがもたらされるまで

1972(昭和47)年、
系列の智弁学園(奈良)で監督でのキャリアをスタート。

甲子園高校野球春夏合わせて7勝。

1980(昭和55)年から指導する智弁和歌山では、
春夏あわせて甲子園高校野球に34回出場します。

2018(平成30)年春のセンバツ終了時点で、
甲子園高校野球61勝。2校合わせて68勝。

この勝ち数は、PL学園(大阪)時代に
58勝を記録した中村順司監督を抜いて、
ぶっちぎりの歴代1位である。

ベンチ前で仁王立ちする、
試合状況を見つめる姿は、
いまや甲子園高校野球名物とも言えるでしょう。

しかしながら、そういった名将も
はじめからは勝っていたわけではない。

智弁和歌山が甲子園高校野球に初出場した、
1985(昭和60)年春の第57回センバツ大会から初戦で5連敗。

この当時は、ベンチに座り込んで戦況を見ていた
高嶋仁監督だったが、何らかを改めなければと、
ベンチ前で仁王立ちして試合に挑む、
1993(平成5)年夏第75回選手権大会で初勝利です。

すれば、翌1994(平成6)年春
第66回センバツ大会であっさりと甲子園高校野球
初制覇を成し遂げます。

少数精鋭・強打の智弁和歌山

高嶋仁監督の指導でのこだわりを持ち、
皆の野球部員に目を配るからこそ、
1学年10人と少数精鋭野球部員だということ。

そのせいで、
下級生時から相当なチャンスをもらうケースがあります。

さらに、少数精鋭ですから、
投手、野手どれも複数ポジションが守れることに重点を置く。

1人の投手に頼らない思考から、
エース番号じゃあない選手が
実質的エースのときも珍しくありません。

その上、「強打の智弁」と名付けられる
攻撃力も特徴の1つに。

1997(平成9)年夏第79回選手権大会を
その当時の大会高打率.406で制すと、
2000(平成12)年夏第82回選手権大会では、
最高打率を.413に更新(当時)。

その上100安打、11本塁打の大会記録を
樹立し2度目の夏制覇を果たす。

それ以降も、
平成甲子園高校野球強豪校の一角
勝利を積み重ね続け、甲子園高校野球界に
仁王立ち続けてきた高嶋仁監督と智弁和歌山。

現在では、1997(平成9)年
夏の第79回選手権大会の優勝時の主将であって、
プロ野球界も体験した中谷仁がコーチとなって
高嶋仁監督をサポートし、王座奪還を狙ってます。

1983(昭和58)年春第55回センバツ大会、1989(平成元)年夏第71回選手権大会、1995(平成17)年夏第77回選手権大会 東東京代表・帝京高等学校を東の横綱に押し上げた前田三夫監督

圧倒的な破壊力を誇った1980年代のPL学園。

とはいえ、1987(昭和62)年初
夏連覇をやってからは、それまでの破壊力もひと段落。

高校野球界は、群雄割拠の時代へとなだれ込みます。

そのような戦国甲子園高校野球を飛び立ち、
「東の横綱」と言われるのが、
東東京の帝京高等学校です。

強豪校へと押し上げたのは、
1972(昭和47)年に就任した、前田三夫氏。

「やまびこ打線」から学んだ体力強化の大切さ

初の甲子園高校野球に出場できたのは、
監督就任から6年後の1978(昭和53)年
春第50回選手権大会。

機動力を前面に出し、2年後の1980(昭和55)年
春第52回センバツ大会では、好投手・伊東昭光を擁して、
準決勝を達成するわけですが、1983(昭和58)年
春第55回センバツ大会1回戦で、この大会で優勝する
蔦文也監督率いる、池田高校(徳島)
「やまびこ打線」に0対11とボロ負け。

この敗北が、
それ以降の指導方針をがらりと変える良い機会となるのです。

陸上部よりとも言われる手抜きのない走りこみはもとより、
ウェイトトレーニングや水泳トレーニングで野球部員達の底上げ、
体力強化をアグレッシブに取り入れます。

それとは別に、
「体作りには筋トレだけじゃダメで、食べることが重要」と
食事の大切さを説いて、
昼めしに3合飯を食べる「3合飯」を野球部員に義務付ける。

しばらくすると、
ほとんどの強豪校も導入することとなる
「食事トレーニング」の草分け的存在であった。

このことは、プロ野球界でも西武ライオンズの
当時監督・広岡達朗(ひろおか たつろう)氏も同じことを。

いずれが最初にやったかについては?
しっかりと調べていなくて正確ではない。

このようにして手にした高校生離れの体つきを活かして、
1989(平成元)年夏第71回選手権大会で
平成初帝京高等学校は伸びます。

決勝戦で、仙台育英(宮城)を延長戦の末に
打ち負かし、ようやく全国甲子園高校野球の頂点に舞います。

甲子園高校野球春夏通算51勝

それ以後も、1992(平成4)年
春第64回選手権大会を制し、1990年代の前半の
甲子園高校野球をリードした帝京高等学校と前田三夫監督です。

試合と比べてもハイライトシーン満載、
とさえべた褒めされる芸術的ノック、闘争心を前面に打ちだした
ベンチからの激も注目されていて、
甲子園高校野球界きっての名将の地位を築き上げています。

しかしながら、やりすぎる指導がアダになって、
主力選手が数多く退部する、というような事件も身をもって知ることに。

それからは、野球部員達の自主性も大切にした
指導方法を試行錯誤したりとか、時代とともに
これまでなかった道にも挑戦していく監督としても有名なのです。

甲子園高校野球春夏通算51勝23敗は、
2018(平成30)年春時点で、歴代3位タイに。

指導者歴45年超え、1949(昭和24)年生まれ。
もうすぐ70歳は、今になっても老いを知らない
熱い気持ちでノックバットを握っているわけです。

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