1995(平成7)年春第67回センバツ大会 甲子園球場スタンドに亀裂、阪神淡路大震災で春のセンバツ開催の危機

復興センバツ。

このように命名されたというのが、
1995(平成7)年の春センバツ大会。

開幕までたった2ヶ月前、1月17日に起こった、
「阪神淡路大震災」は、
死者6434人を出す前代未聞の大惨事。

最大深度7の振動は、
築70年の阪神甲子園球場のグラウンド、スタンドに
亀裂を入れるくらいの、物理的な被害がもたらされ、
被災地のど真ん中のようなこの地から
開催するというのは、これまでなかった
消極的な意見も多かったです。

アルプスに「希望」とPL学園の人文字が!

主催者側は、2月1日に計画していた
センバツ出場校を決定づける選考委員会の
延期することを明らかにします。

他競技やさまざまなイベントは次から次へと
取り止めや延期が発表がなされて、
空気的には「野球どころではない」
というような状況が終わりを見せません。

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そうだとしても、
甲子園球場の修復工事や宿舎・練習場の確保に
メドが立ったところ、
何よりも球児たちのひたむきなプレーが
被災者にやる気を起こさせるとの判断によって、
2月17日にセンバツ大会開催が確定します。

4日後の2月21日には、
出場する32校を発表して、
今回の大会では例外的なに被災地の兵庫から
3校(報徳学園、新港学園、育英)が選ばれたのです。

3月25日、第67回甲子園高校野球センバツ大会が開幕。

右中間スタンドには、
主催者での「復興・勇気・希望」の文字。

左右間スタンドには、
兵庫県と西宮市での「全国のみなさん、
温かいご支援を感謝します」の
文字が掲げられる中、選手入場。

入場行進曲はSMAP「がんばりましょう」。

開会式では黙祷が捧げられ、
試合では鳴り物を使用しての応援を自粛。

そういうわけで、
PL学園はスタンドの人文字で「希望」と
描くことによって被災地へエールを送るのです。

被災地兵庫3校の躍進!

この復興センバツ、1995(平成17)年
春第67回甲子園高校野球センバツ大会を制覇したのは、
初出場の観音寺中央(香川)。

兵庫からの3校は、
練習なんかほとんど出来ない状態に左右されずに、
どちらとも初戦を乗り越えます。

報徳学園が0対3の劣勢から、
後半の7回、8回で打ち負かす
「逆転の報徳」らしさを発揮する事ができます。

新港学園はベスト8まで進出し、
大会を大きく盛り上げます。

球児たちの中では
「野球を行うことが果たして被災者の励みであるのか?」と、
葛藤を抱えながらプレーをした選手も
かなり見られたとのことですが、
「懸命なプレーに励まされていた」との声が
被災地から寄せられたに違いありません。

こういった教訓となる言葉、野球が持つ
“励ましの力”に対しての気づきは、
16年後の2011年、東日本大震災からたった
12日後に開幕した、
第83回センバツ大会で生かされることが起こります。

東日本大震災直後センバツの選手宣誓が多くの感動を呼ぶ

2011(平成23)年春第83回センバツ大会。

阪神淡路大震災直後の1995(平成7)年春
第67回センバツ大会と一緒の協議を呼びますが、
2011(平成23)年3月、
東日本大震災直後のセンバツ大会です。

1995(平成7)年の大会は開催までに
2ヵ月あったわけですが、このときは2週間、
おまけに震災のせいで起きる原発事故の混乱は進行中。

かなりの憂慮と心の葛藤の末、
そうであっても予定通り開催した、
第83回甲子園高校野球センバツ開会式。

「がんばろう!日本」の特別スローガンより
多く社会に気づきを差し出して、
空気を一新させるのが、創志学園(岡山)、
野山慎介主将が行なう選手宣誓でした。

創部1年目出場も商業校ゼロも史上初!

「私たちは10年前、阪神淡路大震災に生まれました。
 今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、
 私たちの心は悲しみでいっぱいです。」

このフレーズから幕が開く選手宣誓。

「人は仲間に支えられることによって、
大きな困難を乗り越えることが出来る」といった
メッセージによって大きな感動を呼び、
センバツ大会の意味合いや野球という競技で発生する
影響力の大きさを新たな形で生み出す、機会でしょう。

創志学園は
「史上初めて創部1年での甲子園高校野球出場」となって、
大会以前より注目を集めていたのですが、
こういった別な形でも高い評価を得てます。

このセンバツ大会にはもう1つの史上初が存在します。

春夏を通じ、初めて商業校の出場が途絶えたこと。

さまざまな意味から、
歴史に残る甲子園高校野球センバツ大会として、
被災地の高校に兵庫の野球部が友情応援を!

いよいよ試合が始まっても、
震災で起こる影響は広範囲に及びます。

計画停電が社会現象とされていた折、
ナイター開催が回避を求めて、
試合時間の前倒し、試合間インターバルの短縮を実行。

偶然ながら26年ぶりに延長戦がなくなり、
雨天順延も10年ぶりにゼロだったのです。

鳴り物入り応援が禁じられたのが、
1995(平成7)年春第67回甲子園高校野球センバツ大会と
同じでしたけど、応援団を送ることが容易ではない
被災地の出場4校
(青森・光星学院/宮城・東北/茨城・水城/秋田・大館鳳鳴)に、
本選に出場が叶わなかった兵庫県17校の野球部員が
「友情応援」と参加します。

“震災センバツ”を制すは、東海大相模(神奈川)。

チームを率いるは、門馬敬治監督は大会前、
選手たちに
「関東大震災の翌年1924(大正13)年春第1回センバツ大会は、
 復興の目的で開かれたといわれる」
「何ができるのか、
 どんなメッセージが残せるのかまるでわからない。
 であっても、我々の使命は必死になってやることではないか」と、
訴えて掴んだ、紫紺の優勝旗です。

1924(大正13)年春第1回センバツ大会優勝校 香川県代表・高松商。

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