兵庫県代表・滝川中エース別所昭 高校野球骨折した腕を吊って投げ続けた

ヒロインの名は、別所昭。後に毅彦と名前変更します。
プロ野球界で日本人初の300勝投手となる男です。

制止を振り切って本塁突入で左腕骨折。

第18回選抜大会で優勝候補の一角に挙げられていたというのが、
豪腕エース・別所昭、後にプロ野球界で、「じゃじゃ馬」で
よく知られている主砲・青田昇の在籍した滝川中(兵庫)です。

初戦を6対0で快勝、続く準々決勝の相手とは、
前年、1940(昭和16)年春第17回選抜大会優勝校の岐阜商(岐阜)。

0対1と滝川中が1点を追いかける形で最終回の攻撃。
1死二塁にランナーを置き、バッターズボックスには別所昭。

岐阜商はこのタイミングで別所昭を敬遠します。
4番・青田昇選手はありふれたサードゴロ。

万事休すであろうと観衆が予想しているその状況で、このタイミングで岐阜商の三塁手が
一塁へ悪送球、ボールが転々と転がる間に二塁から同点のランナーがホームイン。

それから、一塁ランナーの別所昭投手も勝ち越し点を狙って、
三塁コーチャー静止を見ず本塁へ突入することになります。

結果は、ライトからの好返球でタッチアウト。
そうして、途端に、ホームベース脇でもんどり打って苦しみ悶える別所昭の姿が、
左腕を骨折しています。

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キャッチャーからのマウンドへの返球がゴロで!

利き腕はないにしても、腕を骨折したエース・別所昭投手は自ら続投を要望、
応急の手当てで左腕を布で吊って、延長のマウンドへ上がっていく。

けれども、左腕の反動がまるで使えないため、別所昭投手はこれまで投げたことが全くない
下手投げにチャレンジします。

キャッチャーからの返球はゴロで。
悲壮感が甲子園球場を包む中、延長10回、11回の2イニングを無失点に抑える。

片側の岐阜商としては、バント攻撃をしておけば攻略できるのは明白なのに
それを決してやらない武士道精神。

しかし、延長12回、痛みに我慢できない別所昭投手は降板することに。

滝川中は一度も登板機会のない投手がマウンドに立つことになって、
延長14回裏、1点を奪われて決着します。

翌日の毎日新聞神戸版は、
「泣くな別所昭選抜の花だ!」の見出しが躍るのです。

後々に別所毅彦はこの試合のことを尋ねられれば、熱っぽい言い方で、
「歯を食いしばって投げ続けたというのが、
それより後の野球人生の非常に大きい支えになってくれた。」

甲子園高校野球アルプス応援団物語

アルプススタンドに腰掛ける、出場校同士の応援合戦。

このことも、甲子園球場ファンを堪能させてくれる甲子園高校野球ではのシーンです。

こういった応援スタイルは、一朝一夕で成り立ったものではないのです。
甲子園高校野球の応援史。

応援の誕生はドンチャン騒ぎ。

甲子園高校野球が開場したその時点、これほどまでに大きな場所と人の前で
応援をした経験がある高校はどこもありませんし、どの学校も自由気ままに
応援方式を悪戦苦闘状態することに。

このおかげで、統率がとれていない状態の学校はどこにでもあるようなことで、
お金がかからないドンチャン騒ぎとなっている学校も多く見られたそういった時の応援合戦。

とは言うものの、戦争で野球大会が中止となる目前の甲子園球場では、
ド派手な応援は問答無用。閉会式はバンザイでお終いにしなければならず、
観客は総立ちで、「万歳三唱」を復唱します。

軍人や官僚が幅を利かせ、専用の観客席ができるほど、甲子園球場の
スタンドは戸惑いを極めた。

けれども、戦後日本の復興と足並みを揃えるように高まりを見せつける高校野球人気。

その勢いを感じ、甲子園球場の応援スタイルもバラエティーに富んだ形式が発症する
ことになるのです。

戦前は想像できなかった女子チアリーダーの出現。
それから、智弁学園(奈良)や智弁和歌山(和歌山)の「C」や
PL学園(大阪)の人文字は、1962(昭和37)年春第34回選抜大会
初出場の時に初めて披露された説が有力です。

最初は「P」の1文字だけであったのが、次第次第にレベルをアップさせて、
「GO」や「打て」であるとか広範囲に及ぶバージョンが増えていくのです。

今となってはあの応援が甲子園高校野球で見られないかと思い立ったら残念でならないのです。

甲子園高校野球史上最大の応援団

そういった応援スタイルで史上何よりも物議をかもしたのが、
戦後すぐの、1951(昭和26)年春第23回選抜大会に出場した
地元の鳴尾(兵庫)。応援を盛り上げようと、甲子園球場の隣である
遊園地「甲子園阪神パーク」(閉鎖)と交渉します。

正真正銘の象を借りて来て、レフトからグラウンドに入場へといざなう。
怒ったというのが、当時の高野連副会長の佐伯達夫氏。

「象を借りる方も貸す方も常識外れ。もしも、暴れたらどうするんだよ」と
凄まじい勢いで怒りを露わにした。

この象の応援のお陰であろうか? 鳴尾は初出場ながら決勝へ進出する。
その決勝でも、9回表までリードしながら一番最後に逆転負け。

もう一歩まで差し迫った優勝旗。応援の力は猛烈な。

甲子園高校野球大阪桐蔭の春夏連覇史上最長身投手・藤浪晋太郎

2012(平成24)年春第84回選抜大会、夏第94回選手権大会
優勝校大阪府代表・大阪桐蔭。

10年に1度存在するのか否かのハードルが高い偉業、「春夏連覇」。

2010(平成22)年春第82回選抜大会、夏92回選手権大会
優勝校沖縄県代表・興南高校が、史上6校目の達成校が現れてから
2年後の2012(平成24)年、早くも「21世紀最強チーム」の呼び声も高い、
大阪桐蔭(大阪)。

牽引したのは、身長197センチのエース「大会史上最身長投手」藤浪晋太郎。

全試合150キロ超え史上初!

小学校6年生ながら180センチ、中学卒業時194センチと、その名の通り
「頭1つ抜けた存在」とされていた、藤浪晋太郎。

名門・大阪桐蔭でも1年夏からベンチ入りすることになる。
とはいえ、甲子園高校野球には手も足もでない日々。

この雌伏の経験から考えて、内容よりも結果(勝利)を大事に考える、
藤浪晋太郎投手の投球スタイルが完成させたのです。

甲子園高校野球初登場は、3年春の2012(平成24)年春第84回選抜大会
1回戦の相手は、身長193センチ超大物、大谷翔平投手擁する花巻東(岩手)。

「190センチ、150キロ右腕対決」と注目を集める中、大谷翔平投手に
ホームラン1本は許したけれども、試合は勝利を手にする。

それ以降の試合も、ピンチを迎えても要所要所を締める投球で勝ち上がると、
決勝の相手は青森県代表・光星学院(現八戸学院光星)。

藤浪晋太郎投手は、この試合でもヒット12本を許しつつ、試合には7対3で勝利します。

見事に春選抜大会優勝を成し遂げる。
終ってみたら、登板5試合すべてで150キロ以上を測定する、このことは高校野球大会史上初。

決勝戦史上最多タイ14奪三振!

「春は勝っても、夏勝たなければ何の意味もないのです」と、自分自身が語り、
春夏連覇を目標に掲げて迎える、同年2012(平成24)年夏第94回選手権大会。

初戦から14奪三振、準々決勝でも13奪三振を奪う好投で相手を制すると、
続く準決勝でも、強豪・明徳義塾(高知)を相手に2安打しか許さず完封勝利。

春の選抜大会以上のパーフェクト投球内容で決勝に進出する結果に。

決勝の相手は、選抜大会に次いで重ねて、光星学院(現八戸学院光星/青森)。

春に12本のヒットを許した相手だが、準決勝と同じ2安打にシャットアウトして、
決勝戦史上最多タイの14奪三振の好投で2試合連続完封勝利。

最後の打者を152キロのストレートで空振り三振に倒したその瞬間、
両手を突き上げて歓びを爆発してしまった藤浪晋太郎投手。

どこの誰よりも高く立てるマウンド上で、誰よりも背の高い男が掴んだ頂点は、
高校野球大会史上7校目となる春夏連覇の偉業だったのです!

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