甲子園高校野球知られざる秘話

阪神園芸奮闘記 土と一緒に生き芝を愛でる男ら。

土守(つちもり)と言われる男ら。

甲子園球場のグラウンドをどの人よりも知っている、
阪神園芸の熟練職人。

2014(平成26)年夏第96回甲子園高校野球選手権大会、
開幕目前で台風が阪神方向を襲った状況で、
「明日の甲子園高校野球初日。

開幕カードは『台風 vs 阪神園芸』でしょう」という
ツイートが驚くほど拡散されるくらい、
甲子園高校野球ファンから見れば馴染みのある立場。

そのような阪神園芸の中には、
伝説の土守と称される2人の人物を抱える。

「土は生きものや」藤本治一郎!

「甲子園球場の初代土守」
「伝説のグラウンドキーパー」の名で称された方が、
約半世紀に及んだ甲子園球場の土と芝生を見守った
藤本治一郎氏。

甲子園球場完成の翌年(1925)に出生、
小学生の時にはすでに甲子園球場の
グランドボーイを身をもって知る。

15歳で、日本のグラウンドキーパーの第一人者、
米田長次に弟子入りを申し込みをする。

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けれども、折りしも戦火は激化し、
大会の中止でグラウンドは芋畑へと姿を一変させ、
とどめを刺すかのように、
アメリカ軍の焼夷弾まで突き刺さる現状。

平和が訪れると、
藤本治一郎氏は荒れに殺伐とした
甲子園球場のグラウンドを必死の思いで甦られます。

決り文句は「土は生きものや」。

季節を熟慮して槌の配合を一新させ、
雨が多くある春は白球が見えやすいことを
目的に黒土を積み上げる自分だけの配合比に達するのです。

1995(平成7)年に亡くなられた時は、
棺桶にトンボのミニチュアが入れられます。

「冬芝革命」に着手した辻啓之介!

藤本治一郎氏の弟子となってしごかれた人物が
藤本治一郎氏のお嬢さんと結婚をする辻啓之介氏。

辻啓之介氏の最大の功績とは、
藤本治一郎氏と共に芝の研究に時間を
つぎ込んだことになります。

夏ばかりか春もフレッシュな芝の上で
プレーを行なってほしいと、
ゴルフ場の芝の生育研究にあたる知り合いの
手助けも仰ぎ、芝の品種、
長さを数年がかりで研究するのです。

そう言うことから、
秋に種を蒔くと1週間のちに発芽し、
翌年5月頃に枯れるアメリカ産の
冬芝「ペンハイン」に目を付けます。

1982(昭和57)年9月、
失敗覚悟で種を蒔くと、心配することなく発芽。

翌1983(昭和58)年
春の第55回甲子園高校野球センバツ大会
(優勝校・池田高校/徳島)は、
初めての経験で青々とした芝生の上で始められました。

こうした先人達の発想力と技を引き継ぎ、
最新の機材や雨雲レーダーもフル活用しながら、
甲子園高校野球球児たちに役に立つ
一番最適な舞台を作り続ける阪神園芸の熟練職人。

勝つことができなかった高校生の球児たちが
想い出の土を集めやすいようにするトンボかけも併せて、
ドラマをプロデュースする陰の功労者を忘れません!

1918(大正7)年夏第4回選手権大会、1941(昭和16)年夏第27回選手権大会 甲子園高校野球大会中止「米騒動」「臨戦体制」

夏の甲子園高校野球全国大会100年の歴史は、
代表競いをかけた地方大会は開催されたのですが、
全国の舞台の幕が開かなかった悲劇の大会が2大会だけあります。

1918(大正7)年夏第4回選手権大会と
1941(昭和16)年夏第27回選手権大会。

「米騒動」で全国大会中止!

1918(大正7)年、第一次世界大戦も終わり、
日本が景気拡大に沸いたご時世。

けれど、この景気好調が物価の上昇を生じさせ、
しかもロシア革命に態勢を整える日本。

シベリア出兵で政府が米を買い付け、
米販売業者が米の買占めに走ったことから、
米の売り値は戦前の4倍に。

そんなこんなで、7月には富山県で、
「米の価格が高過ぎる!」と暴動が勃発する。

「米騒動」が勃発。

それらの騒ぎはいち早く全国各地へ拡大していき、
8月12日では大阪で軍隊が出動する大事件ということです。

これによってどうしたら良いかわからないのが、
8月14日に開幕予定の第4回甲子園高校野球選手権大会に
勝ち上がって来た14代表の球児たちです。

大会開幕のことを考えてとっくに
開催地の大阪・豊中に集合し、
組み合わせ抽選も終わらせています。

その一方で、軍隊まで出動する騒動で、
主催者の大阪朝日新聞社は13日開催延期を明らかにします。

それから後に、16日には大会中止を決める。

宿舎で待機中の状態だった球児たちは、
その決定の報をそのまま受け入れるしか方法はなく、
優勝旗は前年1917(大正6)年
夏第3回選手権大会王者の愛知一中(現・旭丘/愛知)が持ち帰って、
翌年1919(大正8)年夏第5回選手権大会まで保管するというわけです。

「国を挙げての臨戦体制」で全国大会中止!

1941(昭和16)年
夏第27回選手権大会球児たちをもう1つの悲劇を襲う。

昭和16年。6月にドイツとソ連が戦争の開始、
アジアでは日中事変の戦局も悪化。

いよいよ日本においても、「国を挙げての臨戦体制」が
とられるはめになり、1941(昭和16)年7月13日、
文部省は学制生徒による全国規模の運動競技会の開催中止を通告する。

このことは、野球も除外じゃないのです。

きちんと8月13に開幕の第27回選手権大会の1ヵ月前、
日本各地でとっくに予選の火ぶたが切られ、
地区により代表校も決定している状態になっていますが、
文部省からの「大会中止の通達には従わざるを終えず、
第27回選手権大会中止が決まり。

甲子園球場を目標にしていた
日本全国の球児たちが涙する結果に。

第4回、第27回選手権大会は、
全国の舞台こそ開かれなかったが、
大会数としてカウントがなされて、
優勝校空欄の状態で歴史に刻まれるというわけです。

第二次世界大戦のための大会中止

・1942(昭和17)年、春センバツ大会、夏選手権大会
・1943(昭和18)年、春センバツ大会、夏選手権大会
・1944(昭和19)年、春センバツ大会、夏選手権大会
・1945(昭和20)年、春センバツ大会、夏選手権大会
・1946(昭和21)年、春センバツ大会

1942(昭和17)年夏戦時に幻の甲子園、2018(平成30)年に100回目の夏を迎えた

甲子園球場。

過去99回の甲子園高校野球の歴史内で、
全国大会が中止となったけれども、
大会史にカウントしている大会が2つあげられます。

代表校が出揃った後日、
米騒動で中止となる1918(大正7)年夏第4回選手権大会。

それから、とっくに地区大会に火が付いた7月に、
いきなり中止が決定した
1941(昭和16)年夏第27回選手権大会。

しかしながらその反対に、
甲子園球場を舞台にして全国大会は開催されて優勝校もあるが、
大会史に含まれていない悲劇の大会があげられます。

1942(昭和17)年夏、
16の代表校で争われた「大日本学徒体育振興大会」、
別称「幻の甲子園」。

文部省主催「大日本学徒体育振興大会」!

真珠湾攻撃から、太平洋戦争が勃発。

戦禍が刻々と激化する1942(昭和17)年。

春のセンバツ大会も夏の全国選手権大会も、
文部省の指令で中止が確定する。

代わりに、朝日新聞社主催ではなくて、
文部省主催で開催された「大日本学徒体育振興大会」。

柔道、剣道、相撲と10競技がなされて、
そのうちの1つに野球も入っていました。

スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ」
「戦い抜かう大東亜戦」といった横断幕。

ユニフォームからはローマ字が消され、
空襲警報と勘違いしないために、試合前後のサイレンは厳禁。

続行不能でなければ交代は認めず、
突撃精神にそぐわない投球は避けてはならない、特別ルールで進める。

選手は「選士」と言われる。

最初で最後の優勝は徳島代表・徳島商!

国側の考え方は省いて、2年ぶりの「甲子園球場」。

選手たちはずっと夢見ていた場所で野球ができる、
喜びことほど嬉しいことはなく、
甲子園球場もほとんど毎日超満員。

雨で2日間順延した影響もあり、
準決勝と決勝のダブルヘッダーと、強行日程となるが、
最後は延長11回、サヨナラ押し出しで、
徳島商(徳島)が優勝します。

文部省主催の大会で、最初で最後の優勝校、
けれども「甲子園球場大会」じゃないため、
勝った徳島商に深紅の優勝旗は授与されていない。

贈られたものは、文部省からの表彰状1枚と
しばらくしてから送られるノボリ旗という感じの簡素な優勝旗ぐらい。

それらのいずれも戦時下の徳島空襲で焼失しています。

こういった「幻の甲子園」から35年後の1977(昭和52)年、
その時点の海部俊樹文部大臣が徳島の地に訪問して、
学校側が「優勝を証明しているものが欲しい」と訴え、
その後徳島商に優勝楯と、賞状が贈られました。

1958(昭和33)年夏第40回選手権大会 甲子園球場の土が海に捨てられた沖縄球児の悲劇

49の代表校が優勝を決する、夏の甲子園高校野球選手権大会。

この出場校数が普及したのが、
1978(昭和53)年夏第60回選手権記念大会から。

47都道府県から各1校ずつ、
プラス参加校がたくさんある東京、
移動距離が大変な北海道を二つに分け、計49校代表とする。

そこに至るまで、甲子園高校野球の舞台に立つには、
各都道府県大会を勝ち上がったのちに、
奥羽、東北、北関東、南関東・・・と、いくつかに分けられ
地区大会を勝ち抜かなければいけないのです。

植物検疫法で那覇の海に捨てる!

この地区大会を長らく勝ち上がれなかったというのが沖縄勢です。

しばらくしてから、南九州大会、戦後1952(昭和27)年からは
東九州大会に参加しますが、甲子園球場は無理でした。

そういう沖縄勢が初めての経験で甲子園高校野球の
舞台に立ったというのは、
1958(昭和33)年夏第40回甲子園高校野球選手権大会です。

記念大会ということもあって、史上初めての、
全都道府県から選出することに確定します。

その頃、
アメリカ統治下に有った沖縄からも代表校の参加が確定。

沖縄代表は「首里高校」。

パスポートを携え、予防接種までしてきた夢の舞台の
甲子園高校野球大会だったが、
初戦で駿河(福井)に0対3と完封負け。

この当時、沖縄の食料事情はまったくひどく、
野球部員たちの平均身長162センチ。
どう見ても力負けだったのです。

ですが、この敗戦なんかより、
腹立たしい事件が試合終了後に待っています。

取り出した袋に少しばかりの甲子園球場の土を入れ、
沖縄に持ち帰ろうとしますが、
アメリカの法律に触れたため、
那覇港到着前に海へ捨てられてしまいます。

球児たちから見れば祖国の土だったとしても、
植物検疫法で外国の土と取扱われたため。

沖縄の本土復帰は、1972(昭和47)年。

首里野球部員の悲劇から14年を待たねばならない。

客室乗務員からの「甲子園球場の小石」!

ですが、この悲劇には続きがあるのです。

首里野球部員からすれば
貴重な甲子園球場の土が海に捨てられたというのは、
その当時マスメディアによっても大きく扱われ、
騒ぎとなってきます。

この報道を見ていた日本航空の客室乗務員が、
「土はダメだったとしても石なら検疫対象範囲外」と
甲子園球場にあった小石を拾拾い集めて贈ることにするのです。

桐の小箱に納められた小石は、
客室乗務員達のリレーの力で、
首里野球部員へと渡されます。

首里高校の甲子園高校野球出場記念碑に、
今なおこの「甲子園球場の小石」が大事にちりばめられています!

甲子園球場の土を一番初めに持ち帰った伝説の球児とは誰だろうか?

一人残らず思いうかべる甲子園高校野球の名シーンでしたら、
試合が終わった後の負けてしまった球児たちが
「甲子園球場の土」を集め持ち帰るワンカットです。

この行為を一番最初に行なったのは誰か?

有力な説として2人の球児の名が言い伝えられています。

第1号は、巨人V9監督・川上哲治説!

1人が後にプロ野球の巨人で大活躍し、
V9時代の監督となる川上哲治氏。

熊本工(熊本)時代の1937(昭和12)年
夏第23回選手権大会に出場いたします。

エース・川上哲治投手の活躍で決勝戦に進出するが、
中京商(現・中京大中京/愛知)に1対3で敗れ、
準優勝に終ります。

この試合が終わった後の様子について、
後に川上哲治氏、自分自身が
「私は記念に甲子園球場の土を袋に入れて持ち帰り、
熊本工のマウンドに蒔いた」と想い返しています。

こういった証言から「川上哲治第1号」説が考えられたが、
目に見えて裏付ける物的証拠に近いものは残っていないです。

ですが、甲子園球場の土を蒔いたといった、
熊本工のグラウンドでは、後々にプロ野球・西武で
全盛期を引っ張る、伊東勤、
イチローを上回る天才打者という前田智徳、
いろんなプロ野球選手を輩出します。

大会本部の速達でつかんだ福嶋一雄説!

もう1つ、夏3連覇の偉業に挑む、
小倉北(旧・小倉/福岡)の福嶋一雄である説。

1948(昭和23)年夏第30回選手権大会で連覇に輝いた、
福嶋一雄投手は、翌1949(昭和24)年
夏第31回選手権大会の準決勝に登板します。

けれども、連投の影響から「鉛筆も握れないほど」
痛めていた右ひじは極限まで達して、
途中降板しサヨナラ負けしています。

試合が終わってから、
ベンチに引き上げる他の部員を尻目に、
福嶋一雄投手だけは1人マウンドに歩寄り、
スコアボードを見つめたまま立ちすくんでいたのです。

そのような福嶋一雄投手のもとに、しばらくすると、
甲子園高校野球大会副審判長から、速達が届きました。

その内容というのは、
「君のポケットには宝物が入っている」というわけです。

慌ただしくユニフォームを調べた所、
ポケットから出たのが甲子園球場の土。

福嶋一雄投手本人は、覚えていなかったが、
甲子園球場の去りがたい想いから、
無意識に足元のマウンドの土をつかみ取り、
ポケットに忍ばしていた。

この大会副審判長の速達が発端となって、
福嶋一雄投手が
「甲子園球場の土を最初に持ち帰った」という説が出てきます。

一番最初に甲子園球場の土を持ち帰ったのって、
川上哲治投手か、福嶋一雄投手か、いずれにしても、
球児たちの無念さから発生した行動である結果に違いありません!

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